劇場で一回見たあと原作を読んで書いた感想です。挿入歌の私的な解釈も少し書いています。ちまちま手を入れてるうちに二か月くらい時間が経ってしまいました(^^;)。長くてすみません。(これでも書き足りなかったりする(笑))原作の映画で省かれた部分の内容に少し触れていて、逆にパンフ等は読んでいないので、そのへんもあらかじめご了承くださいませ。
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映画と原作
主人公の少年エリオが暖炉の火に照らされながら、ゆっくりと涙ぐんでいく長回しのラストシーン。あそこで流れていた"Visions of Gideon"を今聴きながら書いてます。自分にとってこの映画は、あのワンシーンとこの音楽に尽きます。監督はティモシー・シャラメにこの曲をイヤホンで聴かせながら演じてもらったとか。納得です。あとで書きますが、原作からばっさり切った要素をこの曲が充分に補完して、映画として着地させる役割を一手に引き受けていた感じさえします。
正直映画から「物語として」の面白みは感じなかったのです。筋はある意味単純で、美しい二人が出会い、まどろっこしい手順を経て思いを打ち明け合い、体の関係を結び、もともと限られていた時間が尽きて美しく別れる。イタリアというと『青いなんたら』的世界(「お坊ちゃんが大人の女性に性的な手ほどきを受ける」青春映画)が十八番なイメージがあるんですが、ある意味その手のファンタシーの範疇でもあるのかも。でもそれが男性同士の同性愛になると、なんと深遠で美しいものとして、ある意味高尚なものとして描かれることか――女性としては怒らなくちゃいけないところかもしれません。腐女子としては「ごっつぁん」」ですが。(笑)
ただし、主人公の置かれた環境はかなり特殊です。同世代の男の子がまったく出てこない、イタリアの避暑地の夏休み。インテリで進歩的な両親に育まれ、ウォークマンでクラシックを聴き、趣味はその編曲。一番親を疎ましく感じそうな年頃なのに、両親の膝に頭を載せて読み聞かせをしてもらったり。「たまたまドイツ語」だった本を訳しながら読んでくれる高機能ママと、同性愛に理解を示す度量の広いパパ。原作によると地元の地主で、家には使用人がいて買い物はすべてパパのツケ。家にたくさん来る客の中には中年のゲイのカップルもいて、彼らが自然に受け入れられている空間。同性愛ゆえの葛藤や差別に傷つくという、ある意味定番の(?)描写はほぼありませんでした。わずかに終盤のアーミー・ハマーの台詞で、あのサンクチュアリの外ではゲイが差別される現実があることを思い出させますが、主人公がいたあの時空はそういうものから奇跡的に守られています。経済的・知的・文化的に恵まれすぎた環境で、見ていて少々鼻白むほどのサンクチュアリ。エリオはそこでごく「自然に」自分の感情に従って行動して、それが「自然に」受け入れられているように見えます。
そんなわけで、途中までは「主人公が恵まれすぎている」「設定が都合良すぎる」「葛藤がなさすぎる」と、ないない尽くし・・・・・・ではなく「すぎすぎ尽くし」(笑)で、頭のなかでツッコミ入れっぱなしでした。でもそのうちに、いかに自分が「ゲイがモチーフのときには障害がなければ」という偏見に縛られているかに気づかされました。そしてこの映画が表現していたのは「恋心の感覚」そのものであり、その破局だの成就だのではなかったのだ、ということも。物語っているというより「表現している」というのがしっくりきます。
主人公は女の子とも関係を持ちますが、彼女はむしろ引き立て役です。登場する女の子たちはあえて美しくは見えないにように、単に肉感的な、生々しいエロスの印象だけを与えるように撮られているように見えました。たとえば泳いだあとの髪がぐちゃぐちゃの姿とか、容赦なくリアルに撮っていて。少年と青年がひたすら美しく、官能的な場面でも「清潔に」撮られているのとは対照的です。
この視点は、うがって見ると主人公のものの感じ方を反映しているようにも思えます。男性に魅力を感じ、性的なことに興味津々の「十代の男の子」の視点。年上の「映画スターみたい」に完璧なアメリカ人青年オリヴァーが崇拝の対象になる一方で、エリオと同年代の、いわばションベンくさい「女の子」が、性的な体験を積むための対象としてある意味矮小化されているのは、そのまま主人公の正直な心情なのでしょう。(たとえ崇拝の発露がパンツをかぶるという行為だとしても(笑)、やはりこれは崇拝なのだと思います。原作を読んでから特にそう感じます。変態的ではなく幼児的な愛着に見えます。ルックスのせいですかね?)
でも、映画全体の視点はもう少し広いものでした。カメラはエリオの一人称ではなく、エリオそのものを対象化しています。エリオに体験を与える当の女の子マルツィアが、二人の関係を単に性的なものから「生涯の友情」に変える可能性を提示します。これは(自分の見落としでなければ)原作にはなかったので、脚色段階で入った要素でしょう。目立たないけれど、原作の終盤を省略したことで空いた穴を、ある程度埋めているとも思いました。原作からはもう一つ、エリオの家の隣に住む10歳の女の子ヴィミニが省かれていますが(幼いけれど非常に頭が良く、病気で短命を運命づけられています。オリヴァーと「友情」を結ぶ、ちょっと寓話的なキャラクターです)、彼女が抜けたところも、マルツィアが「友情」に言及することで少し補っているかもしれません。つまり頭脳を持つ女の子、「友情」を育む女の子というものを、エリオの世界の中に配置しているのです。
挿入歌の"Visions of Gideon"と"Mystery of Love"を書き歌っているスフィアン・スティーヴンスのインタビューを読んだところ、監督は当初ナレーションをかぶせるつもりで、スティーヴンスにナレーター役を打診したとか。原作はエリオが一人称で回想と当時の思いや妄想を怒濤のように語りまくるものなので、それを引き写そうとしたのだと思います。そうしたら逆にスティーヴンスからナレーションはいらないのではと提案され、ああいう形になったそうです。できあがった映画のエリオは、正直何を考えているかわからない描かれ方で、「本当はナレーションがあった」と考えるとちょうどいいくらい「説明不足」なんですが、そこは音楽で見事に補完されていると思いました。感情は全部歌とインストルメンタルの音楽で繊細に表現されていたと思います。
Sony picturesが公開しているスクリプトにもナレーションはないので、この監督と歌手のやりとりが早めにあったのか、あるいはそれに合わせて書き直されたのかはわかりませんが、「小説」から映像と音楽が融合する「映画」の文法に翻訳された、ということだと思います。物語という以前に映画であり、音楽であり、絵であり――ダンスや古典芸能に近いような、瞬間の感情を拡大して見せてくれる、理屈でなく脊髄反射で鑑賞するようなタイプの映画だったと思います。だからツッコミ入れまくっていた間の自分はまた頭で見ていて、「鏡獅子なんて毛を振り回してるだけじゃん」という程度の鑑賞をしていたことになります。
脚色したジェームズ・アイヴォリーは今年90歳。脚色だけとはいえ、なんと瑞々しい映画を作ったものか――と思います。アイヴォリーが関わった同性愛映画という意識がどうしてもあって、やっぱり自然に『モーリス』と頭の中で並べてしまいました。時代の変化、二十世紀初頭のイギリスが憧れた南欧の明るさと解放感――『モーリス』に出てきた精神科医は、どうしても同性愛を「治せない」ならイタリアにでも行けと勧めました。まさにそのイタリアの、80年代の話。『モーリス』にあった同性愛の禁忌や階級意識ゆえの葛藤や障害は、当然ながら今作にはまったくありません。現代でも差別はあるのですから、やはりサンクチュアリと言うしかなく、あまりにも美しくスムーズで「ありすぎる」、と感じたのは、『モーリス』が頭にあったことも関係しているかもしれません。時代としてはエイズが問題になる前ですから、そういう意味では本当に現代以上に「サンクチュアリ」だったのかも。でもそこにある感情はとてもリアルでした。劇的な障害がないからこその、微視的な感情の起伏のリアルさ。現実の恋愛にある障害はたいていの映画よりはるかに平凡で、多くはそれぞれの心の中の問題だったりします。家が敵同士だなんてわかりやすいケースはまずありません。「ゲイだから」ではない、外から見たらなんの障害もない平和な世界での恋愛感情とその展開を、とてつもなく見た目の美しいキャラクターで見せている世界。
父親の長い語りが突然深みを添えます。同性愛を特別な友情として語る父親の職業は古代ギリシア関連の研究者らしく[後に追記ありです]、たしか映画でも古代ギリシアっぽい彫像が出てきてました。もちろん古代ギリシアは理想化された同性愛のある世界。『モーリス』のクライブ・ダラムが学生時代に憧れた、「プラトン的愛」が成立する世界。そことイメージを結びつけることで、現代で言う「ゲイ」を超えた深遠なイメージを醸し出しています。そして父親がエリオとオリヴァーを共に「善良」だというのも。
――[追記:像のシーンのイメージで、元は無意識にパパを考古学者と書いていたのですが、気になって原作で確認しようとしたところ、ざっと見では分野を特定できる箇所を見つけられませんでした。映画では像のスライドを整理していたのでやはり考古学者なのか、それともオリヴァーの書いた本のテーマがヘラクレイトスなので、教え子だとするとギリシア哲学か何か……? それともオリヴァーが言及する「言語学入門講座」をパパの講座とすると言語学でしょうか。でもそれでやり込められるのはおかしいか……?(映画では試すためにわざと間違えてたみたいですが) …見落としかもですが、とりあえずパパの専門分野は保留いたしますね☆]――
女の子への態度なんかを見ると、エリオの資質は配慮のない無邪気さでしかないように見えるのですが、たしかに意識して騙そうとはしていない。あけっぴろげな正直さが善良と言えるなら、たしかにそうでしょう。ただし現実でそういう特質が肯定的に受け入れられることはあまり想像できないので、これも奇跡的な環境だと言えます。こういうことを「見守る」ことができる父親(映画では両親)の、なんという奇跡。こうありたいという姿――こういうものを見せてくれるのも映画のひとつの役割ですね。E.M.フォースターが『モーリス』のあとがきで、ハッピーエンドにしないならわざわざ書かなかった、と書いていたのを思い出しました。
…原作では「善良」の部分の訳は「優秀」なので、少しニュアンスの違うセリフになっています。でもたしかに、知的な優秀さが釣り合っていることも奇跡的な出会いですね。これってすごく大事なことだと思います。正直エリオの知識の豊かさは……行ってる学校がどういうものかにもよりますが、フツーに考えると同年代のなかでは疎まれそうです。
というわけで、この作品が成り立っているのはとんでもなく美しいビジュアルと音楽による「映画芸術」であるからで、物語によるのではないように感じました。なので「小説でこれを成立させているとしたら、いったいどんな仕掛けなんだろう?」と思わざるをえませんでした。ぶっちゃけBLなら濃厚なベッドシーンでも入れれば成立するかもしれないですが、あからさまでありながらそういう作品ではないので。BLにしても障害がなさすぎるのです。
で、読んでみたら――エリオが思いや妄想を一人称でえんえんと語り続けるもので、心情がリアルでした。相手に夢中になりすぎておかしくなっていき、ときどき妄想に拍車がかかる。そして彼はそれを壊したくない。急に冷めたり、またのぼせ上がったりというところもリアル。そういう意味で青春小説なのでしょう。ただ、一番面白かったのは20年くらいあとを描く終盤でした。エリオのある意味乙女な妄想、ああでもない、こうでもないとグルグルしちゃうところ、おかしな理論武装で不安を抑え込もうとするところ、そして「あえてイメージを壊したくない」というナイーブなところは、ひげ面の三十男になってもずっと続くのです。ここまでを見て「恋心とはこういうものだよね」というところが立体的になった気がします。原作の終盤は慌ただしくはありますが、あの一夏の関係が2人にとって決してそれだけのものではなかったことが描かれていました。
原作に出てくる「リアルすぎる」がキーワードかもしれません。エリオは現実で再会したオリヴァーに勧められても、彼の妻や子供に会おうとはしません。「リアルすぎる」からです。冷凍保存した恋心とそれに関わるすべてを、「現在のリアル」と結びつけて生々しいものにしたいとは思わない。強烈なロマンチストであり続けているのです。
「リアルすぎる」は、ぱらぱらと読み直していたら、別の箇所にもある言葉でした。二人がローマで数日を過ごした時、オリヴァーがタクシーに乗りたがるのに対して、エリオはバスに乗りたがり、オリヴァーが折れるのですが、混雑にもまれて結局降りる、というところ。そこでエリオがバスを降りる理由も「リアルすぎる」です。なんだかエリオという人物がよくわかる気がします。何かに「リアルに」接してみたいと思うのだけど、いざそうしてみると受け止めきれない。「リアルすぎる」。とても共感できます。
そして映画では出てこなかった、ローマでの詩人の詩集出版を祝うブックパーティー。このシークエンスがすごく好きなんですが、エリオが詩集のなかで一番好きだと言うのが『サン・クレメンテ症候群』という詩です。メタファになるサン・クレメンテ聖堂は、現在の教会の下に古代ローマ時代のキリスト教教会、さらに下にミトラ教寺院が重なっているのだそうです。この詩の説明にある「重なり」とモザイクのイメージは、まさにラストに流れた"Visions of Gideon"から感じたイメージでした。記憶がモザイク化して幾重にも重なる感じ。この「サン・クレメンテ化」する記憶の感覚そのものが映画のテーマだったのかもしれない、とも思うのです。恋心がそのまま冷凍保存されてるような感覚は、現実離れしているとも、逆にこれこそ現実だとも思えます。
インタビュー記事のリンクに続編が作られるらしいとあり、IMDbにも同じキャストで項目ができていたのですが、これの続編て成立するかなあ……とちょっと疑問に思いました。原作に忠実に作るとしたら、残りの部分は一本の映画にまとめるには中身がない気がしますし、「恋心」を表現した今作に「続き」というのもあまり意味がない気が……。エリオの20年後を演じるにはティモシー・シャラメは若すぎますし。(回想シーンに出るのかしら?)
まあ別の角度から再会した二人を描く方法はいくらでも見つけられるかもしれません。個人的には「続編が見たい」というタイプの映画ではなかったですが(それこそ「このまま冷凍してほしい」という感が強いです(笑))、できたらできたでやっぱり見ちゃうだろうな、と思います。
見かけた別のインタビューでは(すいません、リンクを見失ってしまいました)、ジェームズ・アイヴォリーがフル・フロンタル(前を向いた全裸)がなかったことの不自然さを指摘していたそうですが、痛しかゆしでしょうねえ……いきなりシーツで隠すのが自然でないというのはすごくわかるけれど、下世話な話題性が目立ってしまいかねないし、ぼかしが入ったらそれこそ不自然にいやらしくなりますし。…「文化的に大人な人が見る映画ですよ」とふるいにかけるのもいいのかもしれないですが、レーティングも厳しくなっちゃいますしねえ。記事ではティモシー・シャラメとアーミー・ハマーの契約条件にフル・フロンタルが含まれていなかったのが理由、とのことでした。アプリコットのシーンがあまりに生々しかったので充分だと思いますが……あれこそ映画表現というものではないでしょうか。(たぶんアイヴォリーが言ってるのは「自然さ」「リアルさ」の問題で、エロティシズムの問題ではまったくないとは思いますが)
オリヴァー役のアーミー・ハマー、役割を体現していたと思います。このキャラクターは現実味がないまでに完璧で大人ですが、むしろ現実的な立体感はなくていい役なのだと思います。昔好きだった歌舞伎俳優さん(脇役が多かった方)が、台詞がなく舞台にいるだけの役の心得として「絵になるように」、という言い方をなさっていたのを思い出しました。役割は意識して演じられるもの、ただ絵になるように演じるのはすごくプロフェッショナルなことなんだ、とそのとき知りました。たしかアカデミー賞受賞式番組のオープニングでは、ハマーは「動くケン人形」(ケンはバービー人形のボーイフレンドの名前)とか言われていたと思います。まさにそんな感じでひたすら「絵になるように」演じられるべき役なのでしょう。
24歳の設定にしてはすごく大人なのも、エリオから見た姿を表現しているのでは。ほとんど「子供」に見えるエリオを対等に扱いすぎているようにも見えましたが、それはエリオが恩師の息子で知的でもあり、オリヴァーにとって軽はずみに遊ぶ対象ではないからで、これも恵まれています。これもじつは「都合がよすぎる」と思った点ではありますが、巧妙と言い換えましょう。ああいうラストですから、少しでもオリヴァーに「つまみ食いしてる感」が漂ったら台無しですもんね。(エリオは幼児体形の名残を残す水着姿が印象的でした。手足がひょろっとして上半身にボリュームがないので、痩せてるのに姿勢で赤ん坊のようにおなかが出て見えてかわいい(笑))
ところでこの映画のアーミー・ハマー、誰かに似てる、誰かに似てると劇場で見ているときから落ち着かなかったのですが、先日わかってすっきりしました。『太陽がいっぱい』のモーリス・ロネ。なんだかすごく似て見えます。私だけかもですが……。(「この人とこの人が似てる」と言うと、わりと賛同が得られないことが多いんですよね。目がへんなのかなー。(^^;))
「ギデオンの幻」
"Visions of Gideon"がとにかく気に入ってしまいました。歌詞は単語だけ見ればシンプルな中学英語なんですが、ぱっと読んだだけでは意味がとりにくいです。(MP3で購入し、ネットで原詞のテキストだけを読んで、あえて訳詞や解釈は読んでいないので私見です。ご了承ください。というのは、解釈の過程を楽しみたかったからです)
現実ではなくビデオか幻視だったのだろうか、と、「Is it a video?」「Visions of Gideon」で韻を踏んだリフレインが続くのですが、同じ言葉が繰り返されるうちに、歌い方もあってか意味が変わっていくように感じるんですよね。みごとな「サン・クレメンテ化」。
タイトルと歌詞になっている「ギデオンの幻」がよくわからなくて調べてみました。
ギデオンは聖書に出てくるヘブライ人の戦うリーダーであり、しかも神を幻視して、その神託を受けて戦った勇士なのだそうです。エリオとオリヴァーは共にユダヤ人でしたね。検索していたら、『憂国のスパイ―イスラエル諜報機関モサド』という本がありまして、その原題が"Gideon's Spies"(ギデオンのスパイたち)というものでした。「ギデオン」はユダヤの戦闘的な面を象徴しているのだと思います。…ちょっと横道になりますが、個人的にはギデオンと聞いて思い出すのは、その名の刑事が主役の『ギデオンと放火魔』などの小説シリーズと、その映像化(Youtubeできれっばしを見ただけですが)でギデオンを演じたジャック・ホーキンスの角ばった顔なのです。この「ギデオン」も頼もしいキャラクターなので、なんとなく「そういう感じ」が漂う名前なのかしら、なんて思います。
「Vsions of Gideon」が「ギデオンが見た幻視」の意味なのか、「ギデオンそのものの幻」なのか迷ったのですが、複数形ですし、たぶん前者ではないかと思います。でもどちらで取っても、オリヴァーを神や英雄に見立てているイメージになりますね。
「こんなふうに意味が変わっていくように感じた」という解釈を織り込んで、ちょっと意訳してみます。あくまで自分の感じたイメージなのでご了承ください。
『ギデオンの幻』
君と最後の愛をかわした
あれはビデオ? あれはビデオ?
君のからだに最後に触れた
あれはビデオ? あれはビデオ?
愛しあい 笑いあい 君の腕に飛び込んだ僕
あれはビデオ? あれはビデオ?
君の愛 君の笑い声 君の腕に飛び込んだ僕
あれはビデオ? あれはビデオ? あれはビデオ?
君とかわした最後の愛は
ギデオンの幻 ギデオンの幻
君とかわした最後のキスは
ギデオンの幻 僕の見た幻
君の愛 君の笑い声 君の腕に飛び込んだ僕
あれはビデオ? あれはビデオ?
君の愛 君の笑い声 君の腕に飛び込んだ僕
あれはビデオ? あれはビデオ?
君の愛 君の笑い声 君の腕に飛び込んだ僕
あれはギデオンの幻 君はギデオンの幻
君の愛 君の笑い声 君の腕に飛び込んだ僕
僕は夢を見ただけ 君の夢を見ただけ
…と、ここまで拡大解釈して思ったのですが、ちょっと『みんな夢の中』という古い曲と似た情感を歌ってるような気がします。すごくいい歌なので、ついでに歌詞のページにリンクを貼っておきます。
『みんな夢の中』http://j-lyric.net/artist/a002090/l005c93.html
自分が聞いたのはカバーで、たしか上々颱風(シャンシャンタイフーン)だったような気がするんですが……。違ったらごめんなさい。「身も心もあげてしまったけど なんで惜しかろ どうせ夢だもの」って文字で読むと演歌っぽいんですけど、聴いたバージョンでは「明るくひらけた諦観」みたいなものを感じました。その辺りの「気分」が、ラストのエリオが暖炉の火を見ている表情のかすかな変化に重なって見えます。
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長々と失礼いたしました。おつきあいありがとうございました。
…"Visions of Gideon"はほんとに曲として好きになってしまいまして、じつはこれと"Sailing By"(イギリスのBBCラジオでやってる深夜の船舶用気象情報のテーマ曲)を、勝手に今書いてる新作のイメージソングにしています。で、書くときは二曲のMP3ファイルをエンドレスで流しっぱなしにしています。…それはまた別の話。(笑)