公開当時ゲイムービーのエポックメイキングだったという『真夜中のパーティー』。レンタルで鑑賞しました。ゲイ仲間のバースデーパーティーに事情を知らないストレートの旧友が訪ねてきて……という集団心理劇。もともとは舞台劇で、ニューヨークの1960年代のお話です。じつは以前、大好きなマーク・ゲイティス氏がイギリスでこれの舞台に出演(しかもリアルの「夫」様と共演!)とTwitterで宣伝していて、調べたら映画化作品のコレがあったので、「見たいなー」と思い続けていたのです。そしたら少し前に、運よく近所のツタヤの良品発掘コーナーに入ってきたのでした。
さて、設定だけ見るとコメディにもなりそうなお膳立てなんですが……けっこうつらい映画、かつ引き込まれる映画でした。というのは、ゲイであることをメタファーとして、「生きにくさ」を抽象的なレベルで自分に引きつけて見ることができるからです。そういえば一般映画として公開されるタイプのゲイムービーって、こういう「生きづらさへの共感」が大きな要素としてあるなあ……と思いました。この作品は腐女子目線でも萌え要素はほぼゼロですし、60年代風俗が今見るとイタかったり、不愉快なくらい「辛い」ところもあったのですが、なぜか返却するまでに三回見返してしまいました。別の引力があるんです。(音楽にも時代感があって……子供の頃エレクトーンで習ったバート・バカラックの『ルック・オブ・ラブ』が使われてたりして、初見なのに妙なノスタルジーも味わいました。(^^))
ただ、原作が舞台劇のせいか台詞が多く、しゃべり方も早くて、初回は意味をとれないところがけっこうありました。字幕自体が字数制限ではしょられているためか、納得のいかない台詞も多くて……で、探したら原作戯曲の邦訳があったので、そちらも図書館で借りてみました。(引用する台詞は字幕の記憶や戯曲の訳から要約しています)
出てくるキャラクターたちは30歳前後で、主人公のマイケル(びみょーに宮根誠司似)はパーティーを開く部屋の主。誕生日を迎えるのは別の人です。恋人の台詞によると「失業手当を映画なんかに浪費して」いて、部屋には映画女優のドローイングがたくさん飾ってあります。(あいまいに映画業界の人っぽいんですが、戯曲では脚本を書いてボツになった経験を口にしています)ブランドものを買いまくり、借金を重ねては逃げることを繰り返しているらしく、一方でマメにミサに通うカトリック。分析医にかかっていて、五週間禁酒しているところ。毒舌家で、口を開けば個人攻撃や憎まれ口めいたジョークばかりです。
彼と毎週土曜日に会っている恋人のドナルドも分析医にかかっていて(ある意味この時代の「流行り」でしょうか?)、「自分がこうなった」こと……ゲイであることばかりでなく、「ものごとを途中で放り出す」「失敗すると安心する」……のは両親のせいだと言います。こう並べるということは、ゲイであることを自分の欠点だと思っているんでしょうね。映画の字幕ではそこ止まりの説明ですが、戯曲では「失敗すると母が"喜んで"愛してくれる」という体験を幼少時から繰り返してきたためだと自分で分析。(あるいは分析医が言ったのでしょうか)ハンサムで体形にも恵まれ読書家で、薄給の清掃人でいることを「天職」と言います。借金を踏み倒しながら気ままな暮らしをしているマイケルとは対照的で、マイケルはドナルドを「良心的で働き者で借金のない、ゲイの鑑」と皮肉ります。 …一応恋人と書きましたが、本人たちがそうじゃないと言ったり、それなのにすごく依存しているところがあったり、微妙な距離感です。
60年代なのでエイズが問題になる前の世界ですが、冒頭の二人のシーンでは「その時代のゲイ」のシリアスで個人的な悩みが語られます。でもマイケルはあまり空気が湿らないようにまぜっかえします。こうしてごまかしながら生きていないと破綻してしまうんだろうな……という感じがしました。つっぱっているようで危ういバランスの上に立っている人。ポンポンとジョークを飛ばして好き勝手にしていながら、その裏で自分がゲイであることを「治したいもの」、苦痛の元と捉えているようです。
同性婚が広がりつつある国の今の感覚とはかなりのズレがあるでしょうが、今も世界がすべてそう変わっているわけではないですし、逆にこういうところがこの映画に普遍性を与えているように思います。「自分の中のある部分を自分自身が肯定できない」という、おそらく多くの人が共有する葛藤と重ねて見ることできますから。
とはいえ、アパートに集まる他のメンバーはさまざまです。小柄で容姿は残念なオネエタイプのエモリー、黒人の書店員バーナード、写真家のラリーと教師のハンク(離婚調停中でラリーと同棲中)、この日に32才になるユダヤ人であばた面を過度に気にするハロルド。そこにハロルドへの「プレゼント」として買われた男娼(マット・デイモン似。『真夜中のカーボーイ』を踏まえたジョークでカウボーイハットをあてがわれています)、マイケルの大学時代の友人で弁護士のアランが訪ねてきます。マイケルは彼に対してゲイであることを隠しているので、このパーティーがゲイの集まりであることを隠そうとします。
途中でとあることから流れが変わり、マイケルは「心から愛している人に電話で告白する」というゲームを始めるのですが……ちょっと唐突に感じたところでした。戯曲を読んで、疑問のうち字幕の字数制限が原因だったらしいところは解決したんですが、やはり根本的な疑問は残りました。詳しく書くとネタバレになるので控えますが、マイケルの言っていることを信じると、彼はあることを最初から確信しているはずなのです。でも前半ではそういう反応をしていなくて、嘘をついてるわけでもない。前半と後半が、どうもうまくつながっていないように見えました。単純にカットされた結果でしょうか。映画ってそういうこともありますから……。(映画を見た後は「自分だったらこういう流れにするのになー」という改正案(?)が脳内に湧きまくりました。(笑)でもその「改正案」は戯曲を読んだらちゃんと入っていたんです……これをカットするとは思えないので、映画では自分が見落としたのかな。三回も見たのに!)
…そのへんのもやもやしたところは残ったのですが、やはり引力のある映画・戯曲でした。ゲイの世界は思った以上に見た目重視なんだなあとか……。あと、へんな言い方ですが、ゲイのカップルならではの「かっこいい」対立もありました。常に複数の恋人がいないと我慢できないラリーと、一夫一夫にこだわるハンクが互いの思いをゲームの電話を通してぶつけ合うシーン。妥協ともなんともつかないやりとりが終わると、電話を置くカットがまるで拳銃を置くようで、電話が拳銃がわりの決闘シーンみたいな緊張感が独特でした。ヘテロでこうはいきますまい。
そしてやはり、先ほど書いた「生きにくさ」への共感。タイトルに引用した「こんなにも自分を嫌わずにいられたら」は、終盤のマイケルの台詞です。この映画で一番「刺さった」台詞がこれでした。(じつは戯曲は同箇所の台詞が微妙に違い、「どうしてこんなに憎み合ってしまうんだろう」となっています。同じ原文で翻訳の解釈が違うだけかもしれませんが、原文同士の引き合わせはしていないので未確認です)
単純に見目好い俳優さんを見る楽しみを除けば、腐女子としての自分がゲイを扱った映画に惹かれる上で、この「生きにくさ」への共感と、先ほどの「男性同士でないと出ないカッコよさ」が持つ意味は大きいんだな、と思いました。振り返って自分が創作するときを考えると、当然「自分が面白いと思う作品」を作りたいわけで、この辺の好みをはっきり意識できたのはちょっとした発見でした。もちろん自分にとっての「引力」もそれだけではないんですけれど。
…映画のキャストは舞台のオリジナルキャストそのままだそうで、自分は知らない人ばかりでした。が、ハンク役のローレンス・ラッキンビルだけはなんとなく見覚えがありました。調べたらなんと、スタトレ映画でスポックの兄弟サイボックを演じていた方だそうです。でもこれを覚えていたとも思えないので、まあ「なんとなくこういう顔って見るよね」という感じかな?(あ、チョイ役ですが、唯一はっきりわかった人がいました!のちにボンドガールをやるモード・アダムス!写真家ラリーの仕事のシーンで、モデル役でちらっとだけ顔を見せました。若い!)
萌えはほぼゼロと書きましたが、二回目以降ハンサムに見えてきたのがドナルド役のフレデリック・クームズ。IMDbには写真がないのですが、ググったところ、この作品を手掛けた大物プロデューサーのドミニク・ダンとの間にロマンスがあった、という記事にぶち当たりました。2人とも故人ですが、記事はこちら。(ダンの伝記企画が進行中という記事で、中ほどの白黒写真の右の人がクームズです)といってもスキャンダルというより、比較的「いい感じ」のエピソードとして書かれているように見えます。記事によれば、クームズは自身も劇作や演出をする「温かくチャーミングでおおらかな男」で、毎年クリスマスに孤児のためにプレゼントを集める大きなパーティーを開いていたとか、ダンにポジティブな影響を与えたとか書かれています。ダンは既婚者で子供もいて、本は明らかに「芸能界セレブの同性愛暴露本」のようなんですが、スキャンダル感が薄く感じられたのは、おおっぴらに男性とデートし始めたのは奥さんの死後、と書かれているためかもしれません。(イマドキ「同性愛だからスキャンダル」という感覚はないですが、奥さんの生前の浮気だったらやはり腐女子の目にも印象悪かったかも★)
マイケル役のケネス・ネルソンは、後年アメリカからイギリスに活動場所を移したそうで、IMDbのバイオにご本人の言葉が紹介されています。イギリスのほうが自分に合っていると説明する言葉ですが、
「ここではみんな『ランボー』と聞いてもシルベスター・スタローンを思い浮かべたりしない」
というくだりがちょっと印象に残りました。
…この作品のキャストの多くが実際にゲイだったそうで、プロフィールを見ると、クームズやネルソンを含めて何人もがエイズ関連で亡くなっています。時代を感じますし、ゲイティス兄がよくHIV検査の啓蒙ツイートをしていることの「現実感」が改めて理解できました。
さて、冒頭で書いた通り、この映画に興味を持ったのは、そのマーク・ゲイティス氏と同性パートナーのイアン・ハラードさんが、この戯曲の舞台"The Boys in the Band"に出演したためでした。ゲイティス兄はハロルド役だったそうなんですが、これがもう、舞台の話がなかったとしても「ゲイティス兄似合う! てか似てる!」と思うくらい。見た目もですが、物腰や台詞回しも。『リーグ・オブ・ジェントルメン』での女装含めた「やりすぎ百面相」を思えば、何でもありな方ですが……(笑)、でもそこまでいかずともまんま変換可能です。「この似姿から発想した企画なんじゃないの?」と思うくらい。おかげで初見は「似すぎてる」のが気になって落ち着きませんでした。(笑)ハラードさんは容姿で当てはめるとストレートの旧友アランに一番似ていましたが、役はマイケルだったそうなので主役ですね。ゲイティス兄脚本作品で拝見して以来、ゆるくファンなので、お二人が共演の舞台版も見てみたかったです。