『坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』/「やおい」と「JUNE」と「色気」の話

大好きな坂田靖子先生のデビュー40周年記念本が出ました!おもな感想は個人ブログに書いたのですが、そこで書ききれなかった「やおい」「JUNE」のお話、イモヅル式に創作に関して思ったこともちょろっと書かせていただきマス。(連動企画の原画展は明日からですね。ぜひ行きたいです!)

 

直後に届いたデアボリカ通信(坂田先生が発行しておられるニュースレター)と原画展DMをまじえて記念撮影。今回の切手は「けんちん汁」♪

坂田靖子先生の原画展は銀座スパンアートギャラリーにて。

3/5(土) - 3/15(火) 2016

※開場時間:全日11:00~19:00

 

会期中無休 入場無料

 

 『坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』には、コミティアの「『兄弟仁義』とその時代展」のときの、坂田先生と波津彬子先生の対談も再録されていました。「やおい」の語源について――すでによく知られているお話ではありますが――「当事者さんの言葉で」読むことができます。(個人的にはちょうどティアに再び通いだしてた時期のことで、展や対談内容に既視感があるので、このときのティアマガ買っていたのかもしれません。でもうろ覚えの記憶しかなく(^^;)今どこにあるかもわからないので、とても楽しく読みました。改めていろいろ新鮮です♪)

 

詳しいいきさつは本を読んで頂くとして…「ヤマなし、オチなし、イミなし」と開き直った上で「ある種の色気を含んだもの」、というイミでの「やおい」は――リアルタイムでは中学生くらいだった自分も友達との会話で使っていましたし、経路は覚えていませんが『らっぽり』「ラヴリ」も名前だけは聞いた(読んだ)覚えがありますから――わりとオタク文化圏では人口に膾炙していた(?)と思います。なんだか懐かしいというより、ほんの数年前のことのような気がします。自分がそこから進歩してないということでしょうか。(笑)

 

このもともとの、あいまいな(=幅の広い)意味に近いところでの「JUNE」感覚、「やおい」感覚をお持ちの方は、世代に関係なくいらっしゃると思います。これ大事なところで。感覚を解するというイミでは、「世代」も「JUNEを読んでいたかどうか」もたぶん関係ないです。外部から学習したものというより、各個人が持っていたものに名前がついた、という感じがするのです。今のBLに「コレジャナイ感」を感じるのはなぜか、というのもここじゃないかと。そこを語るにはやはり、『JUNE』誌が大きく関係してくるのですが――もちろん坂田先生は『JUNE』にも連載しておられましたし、この本にはささやななえこ先生と旦那さま(『JUNE』を企画創刊なさった佐川俊彦さん)の対談も載っているので、そのへんにも自然に話が広がります。印象的だったのは、当時坂田先生に『JUNE』への執筆依頼をした理由の説明のなかで、『JUNE』の編集方針として「品を大事にしていた」という点に触れられていたことでした。そのまま引用します。

 

「ひとつ間違うと生々しくなりがちなジャンルだったので、雑誌で扱うにあたって、品は大事な要素だったんです」

 

すごく納得でした。個人的には小説JUNEのほうは読んでいなくて、『JUNE』というと「JUNEな感覚を感じられるモノをいろいろ紹介してくれる雑誌」、というイメージでした。それは同性愛に限らず、また誌面に載る作品にも限らなくて、むしろ映画や演劇、美術展方面の「開かれた」情報があったのが印象に残ってるんです。(同時期にあった『ALLAN』とちょっと印象が混ざっていますが…)

…だから芸術一般と地続きで、歌舞伎やらなにやらやすやすと取り込んでた印象です。当時の中学生としては「少し背伸びした文化の世界」なわけで、それでいてその中にあるインモラルな魅力を「おおっぴらに愛でている」切り口が独特だったんですよね。美しくて色っぽいものはなんでもありみたいなところと、ある意味で高尚なものも手づかみで食らうようなところが。(笑)

 

現行のBLが「生々しいエロスこそ商品価値」の方向に大きく舵を切っているのは、ある意味で進化だと思うんです。でも当時のJUNEの扱う範囲がかなり広く、印象として別物なのは事実で、よく「JUNEとBLを区別する」というのはここだと思います。(極端に言えば、BLは受け付けない男性でもJUNEなら楽しめるタイプのものはある、という感じ。「男性同士の同性愛」がないところでもJUNEは成立するので)

『JUNE』がそうだったのはなりゆきではなく、意図してフィルターにかけて、そういうメディアを作っていたというのが、今回の対談を読ませていただいてよくわかりました。時代的に女性向けメディアの取りうる範囲というのもあったとは思いますが、けっして「エンリョでエロを抑えた」というレベルの話でなくて、ある種の「品」によって圧力が上がる別の世界が構築されていたと思います。

 

これ、肝に銘じようと思いました。JUNEが「こういうのが受けるから」という受動的な態度とは違う、ある意味で攻め(おっと(笑))の姿勢からできたものだった、という解釈。(「解釈」であって、それが事実かどうかは自分にはわかりません)

今、この分野でこのバランス感覚を持ったメディアがなくなっているのは読者として寂しいことです。やりたい邦題になってるはずの状況のなかで、少なくとも雑誌では、逆に選択肢は狭くなっているように感じます。もちろん雑誌媒体自体がとても厳しい状況にあり、攻めの姿勢はなかなかとりにくいというのもあると思います。でも個人レベルではいろんなことをやってる方がおられますし、今はネットという場もkindleのような個人出版が楽にできる場もあり、個人の発信がしやすい環境になっていますから、そう嘆くことはないのかもしれません。

 

自分は二次等では18禁もやっているのですが、シリアスにJUNE的なもので「圧力を上げよう」とすると、「あからさまにエロティックなシーンを書かない・描かない」という選択になったりします。どちらが良い・悪いではなく、個人としてJUNE体験から影響を受けた結果かもしれません。「あからさまにエロティックなシーンを書かない」ことは、今の特化した商業BLでは逆にできなくなっているんですよね。面白い逆転現象(?)だと思います。一方で、わりと若い方がどこかの掲示板で、「ラブシーンがないBLってないですか?」という書き込みをしていたのを見かけたことがあります。前述の通り、「この感覚」を持っている方は世代に関係なく(多数派ではないかもしれませんが)おられると思うので――そういう意味のJUNEの魅力が凝縮している坂田先生の作品や、そういった方面の表現が新たな「同好の士」を獲得して、広い意味での腐女子・腐男子の世界がより広く、より深いものになることを願って止みません。

 

坂田先生は「色気」という言葉を広い意味で使われていて、たしか(今回の本ではありませんが)マルセル・デュシャンの作品にすごく質の高い色気を感じる、と書かれていたと思います。たぶんそういう意味の色気も「JUNE」は取り込めてしまえますね。BLと差別化するという意味ではなく、その幅の広さから派生したことを思うと、広義のBLというジャンルはもっと自由に、もっと豊かになっていけるんじゃないかな、と思います。