【お試し読み】ギャザリング・ストーム:さむがり男子イアン・ワージングのゴースト修行

欲求不満の歴史ライター

 

 いつもにこやかなジェームズ・モンゴメリー。シャイだけどやさしくて、未だに学生時代と変わらない。窓からの光を受けて、見事なブロンドが輝いている。唇がやけに赤くて歯並びがいい。

「…で、今は何を書いてるんだい?」

「んっ?」

 テーブルに頬杖をついていたイアンは、我に返って口元だけ不自然に微笑んだ。カフェの喧騒が急に耳に入ってきた。ジェームズは苦笑した。

「今の仕事。…話聞いてた?」

 …ごめん聞いてなかった。君の唇に見惚れて……なんて言えるか。

 

 彼はやさしい。話し方も穏やかだ。だがベッドの中ではけっこう激しいのをイアンは知っている。恋人というより、学生時代に「自分の嗜好を探求」するのを助けてくれた仲間の一人だった。その後イアンは自分が年上好みであることを理解し、彼は彼で別の男とつきあった。ときどき彼に再会すると……今日のように、もはやゆるい同好会と化した歴史研究会の会合くらいでしか会わないが……いつも学生時代の甘酸っぱい記憶がよみがえる。いやなこともたっぷり経験したが、彼とはいやな思い出がない。

 今の彼は、アランという俳優の卵と暮らしながら博士論文の準備をしている。幸せそうだ。研究会の会合の帰りに、イアンが詳しい資料について相談され、カフェでそのまま話し込んでいたのだった。

 イアンは目をぱちぱちさせてメガネを押しあげた。自分の近況はあまり話したくなかった。

「あー……チャーチル」

「え、チャーチルの何?」

「戦間期の……軍需関連……てとこかな」

「君の得意な分野じゃないか! よかったなあ、UFOや陰謀論とは手が切れたわけだ」

「ははは、まあね」

 イアンの笑顔がかすかにひきつっていた。

 

 …戦間期のチャーチルには違いない。軍需に関係していることも間違いない。ただしタイトルは『予言者チャーチルと殺人光線の謎』――チャーチルが予想して、のちに実現したいくつかの歴史的事実……外れたものにはもちろん触れない……と、当時「ドイツ軍が開発している」と信じられていた架空のビーム兵器を絡める、というシロモノで――おまけにゴーストライターの仕事だった。ジェームズは無邪気に聞いた。

「何に載るんだ?」

 いや、記事じゃなくて本だよ――なんて言ったら白状するはめになる。「ベルサイユ条約の成立過程とその国際経済への影響」を研究している友達に、「殺人光線」なんて口にしたくもない。守秘義務以前の問題だ。

「…いや、忘れて。クソみたいな匿名記事だから」

「そんな……自分の仕事をそんな言い方するなよ」

 人のいいジェームズは形のいい眉をひそめた。イアンは苦笑して首を振った。

「ごめん、答えに困るよね。性格悪いのは自分でわかってる」

「べつに性格は悪かないよ……それほどには。ただ、ときどき言ってほしくないことをはっきり言い過ぎるけど」

 イアンは鼻を掻いた。…以前ジェームズの彼が俳優の卵だと初めて聞いたとき、軽い気持ちであるコメディアンの名前を出してしまった。「ゲイのプロデューサーと寝て仕事を取る」というジョークが持ちネタの。無神経だったと気づいたのは、ジェームズの傷ついた顔を見てからだった。彼はもちろん気分を害した。許してくれたのは彼だから、としか言いようがない。ジェームズは言いにくそうに口を開いた。

「それがなければ教授だってあの時……」

 ジェームズが口をつぐむと、イアンは肩をすくめた。

「やさしいな。人類がみんな君ほど寛大なら、今頃戦争はなくなって僕は友達だらけ」

「ほら、またそういう変なことを言う。それは一種の逃避だよ」

「そうかな」

「また戻れるさ」

 イアンはため息をついた。

「それはないな。少なくともあそこには」

「先のことはわからないよ」

「いや、わかるよ」

「そういうところも君の欠点だよ。そうやって先走って考えすぎる。自分で自分の可能性を縛ってないか? 少し時間をとって、瞑想してみるといい。心をオープンにするんだよ。安全だと感じることが大事なんだ」

 …俳優の卵に感化されたのか、昨年あたりからよくこういうことを言う。ジェームズはイアンを分析するようにしげしげと見た。

「余計なことかもしれないけど……そろそろ誰かとつきあったら?」

 

(中略)

 

*      *      *

 

 イアンのフラットは、寒がりの彼にはヒーターをつけていても寒かった。セーターを重ね着し、靴下も二枚はいてパソコンに向かったまま……彼は小一時間フリーズしていた。

 イアンは自惚れてはいなかった。自分が名文家だとは思わないし、目指してもいない。仕事を選り好みする立場にもない。それがわかる程度には自分に対して客観的だ。――だがしかし。

 

 構成も資料もおおかた用意されているのに、執筆は難航している。悪いことに、今回持ち込まれた題材……歴代で一番人気のある英国首相、ウィンストン・チャーチル……は、ジェームズの言ったとおり彼の領域ド真ん中だった。自伝を題材に卒論を書いたくらいだ。イアンはこれまで、自分の中のスイッチを切って、『霊視によるロンドン大火の真実』だの、『あの湖のモンスターは今?』だのというトンデモ記事を数々こなしてきた。しかし今回は訳が違う。対象に思い入れも知識もある。妥協できるわけがない!

 

 そこへメールが届き、先にできた表紙イラストが添付されてきた。ここから無茶だ。中身ができていないのに表紙ができている。こういうものなのか? イアンは画像ファイルを開いた。…これまた素敵な絵だ。

 

 執務室のチャーチル。机に水晶玉。背景にサーチライトのような機械。墜落するスピットファイアがオーバーラップしている。メッセージ。「この絵からインスピレーションを得るといい」。イアンはがっくり肩を落とすとウィンドウを閉じて額に手をあてた。さあ早く書け。尻を槍でつつかれてるような気分だ。槍を持っているのはこれを送ってきた初老の出版エージェント、ニック・ダイク。カールした白髪に囲まれたギョロッとした目玉が、抜け目ない魔女を連想させる。…選択を間違った。あのとき道は二つあったのに。

 

 ニックはイアンがなりゆきで記事を書いたトンデモ雑誌とつながりのある個人エージェントで、イアンが書いた『辺境のレイラインを行く』の記事を見て連絡してきた。幸か不幸かその記事は評判になり、無名のストーン・サークルがレイ・ハンターと呼ばれる好事家たちの新しい聖地の一つになっていたのだ。

 

(中略)

 

 

 

ロバート・クラークソン

 

 イアンが著者のロバート・クラークソンのオフィスで初めて顔合わせをしたのは、もう一週間くらい前だ。会う前に、イアンは写真と資料をもらっていた。写真は著者近影用のものだ。「真理の探究者ロバート・クラークソン」。見た目は五十代くらいで、ハンサムでにこやかな、日焼けした顔。渋みはあるが精力的に見えた。ヨットの上で撮られたものらしかった。トンデモ研究家というより、成功したレストラン経営者のような雰囲気だった。

 実際それに近いのかもしれない、とイアンは思った。経営者は自分で料理をするわけじゃないし。イアンは「著者」の著作リストに目を通した。イアン自身は一冊も読んだことがなかったが、平均して年に一冊は新刊を出している。何度か著書をベースにしたドキュメンタリーがナショナル・ジオグラフィック・チャンネルで放映されていて、そのホストも勤めていた。イアンは知らなかったが、謎を追う冒険家めいたキャラクターで固定ファンがいるようだ。だがこの刊行ペースに表れるとおりにアマゾンだのバミューダ・トライアングルだの飛び回っているとしたら、著書のうち彼自身がキーボードを叩いたものがどれほどあることか――。

 

 だが、イアンの予想は覆された。ロバート・クラークソンにはリサーチの補助をするスタッフはいたが、本文を書くゴーストを雇うのは初めてだった。妻の協力はすべての本に記載されていたから、二人三脚でやってきたようだ。ミーティングではイアンよりナーバスになっていて、まるで互いに気が乗らない縁談を、ニックが無理にまとめようとしているような妙な雰囲気だった。空気がかすかに変わったのは、もうミーティングが終わろうというときだ。

「彼に話がある。二人で話したい」

 ロバートがそう言い、ニックが先に帰ってイアンは居残りになった。ロバートはいくぶん疲れた顔をしていたが、声は力強かった。

「ゴーストをするのは初めてだと聞いてる。でもこれまでの記事を読んだよ。何人か候補はいたんだが、能力を買って君に頼むことにした。だからプロとして応えてほしい」

「もちろんです。光栄に思ってます。最前を尽くします」

「それならよかった。最初に言っておきたかった。ゴーストの仕事を一段低く見る連中もいるが、私はそうは思わない。映画監督を見ろ。監督が全部リサーチをして、脚本を書いて、セットを作って照明を当てて、演技をして撮影して、劇場で映写機を回すか? 違う。作品はプロが力を結集した結果なんだ」

 ロバートの口調は、イアンより自分を納得させようとしているようだった。イアンは苦笑した。

「そうですね」

「それでも『2001年宇宙の旅』はキューブリックの作品だ、と言われる。失敗した場合の責任も監督が負う」

「おっしゃることはわかります」

「それと、気に入ったのは君の経歴だ。これによると……歴史科で二十世紀の国際関係を専攻していたね?」

 ロバートはノートパソコンの画面に目を落とした。

「ええ」

 気分が良かった。たいていのクライアントはそこまで気にかけない。人間扱いされている、という気がした。

「ニックにも確認した。君はチャーチルには詳しいらしい。そこもポイントだったんだ。今回のテーマは私の本としては新分野でね」

 ロバートは無造作に髪を掻きあげた。

 イアンはいくぶんうっとりとその動作を見守り――改めてその指の結婚指輪を確認した。奇妙にも、落胆と安堵がいっぺんに押し寄せた。やってることを別にすれば、彼が好みのタイプだったからだ。初めてのゴーストの仕事というだけでも緊張はしてる。これ以上精神的負荷は増やしたくない。むしろヘテロの既婚者でよかった。

 

*      *      *

 

 彼には人を魅了する力がある。こういう人物はいるのだ。イアンはロバートの姿を思い出して身支度をしながら、緊張とは別に、彼に会うことに少し興奮していることに気づいた。ロマンスグレーで日焼けしているハンサムなクライアント……おい、やっぱり僕は欲求不満か? でも相手のルックスを楽しんで何が悪い。どうせ会うんだから。…いや、今の問題はそこではなかった。