《短編小説》

千夜一夜

昔S-Fマガジンのショートショート投稿コーナーにいくつか応募した中で、あらすじのみ誌面でご紹介頂いた作品です。2004年に少し改稿し個人誌に掲載しました。2024年『あの頃の未来』に再収録をしたので、最新の改稿を反映しました。


不時着してから地球時間でたっぷり一週間は経ったが、空はずっと「夜空」だった。この星は自転周期と公転周期が一致している。

 

男は干からびた大地に寝ころんで見慣れぬ星座を眺めながら、大昔の探検家のことを考えていた。考える時間はたっぷりあり、気を逸らせてくれるものは何もなかった。子供だった自分の心に冒険心とヒロイズムを刷り込んだ、数々の伝記の背表紙が星空に浮かんだ。南極点を目指した、あれはだれだっけ? …スコット。ロバート・ファルコン・スコットだ。彼とその探検隊は南極点に到達し、帰る途中で遭難した。彼らは極寒の地のテントに閉じ込められたまま、最後を迎えた。それでも最後まで陽気に歌っていたという……残された日記を信じる限りは。自分もそうでありたい。

 

男は右に顔を倒した。かつて惑星探査船だった残骸が、わずかな星明かりを寒々と反射しているのが見えた。

 

この惑星に呼吸できる大気があったのは幸いだった。あるいは不運だった。生き延びることができる、と思ったばかりに、飲みこむタイミングを逸してしまったのだ。地球を離れる者が、孤独な死を免れるために携帯している、あのカプセルを。

 

地表に降りた男は、地中から伸びてきた触手のようなものに足をつかまれた。男を食うつもりはなさそうだったが、外すことも切ることもできなかった。見た目は植物のようで、彼が工具より顕微鏡に親しんでいる人種だったらなんとかできたかもしれない。だがここにいるのは彼と、非力な給仕ロボットのペイジーだけだった。

 

古風なウエイターの姿をしたペイジーは、注文を取り、新しいレシピを覚え、惑星の組成元素からアミノ酸を合成し、ローストビーフそっくりのものさえ作れた。だが、未知の生物の前には無力だった。

 

かくして男はむき出しの荒野に囚われの身となった。生物らしきものはこの触手だけだ。地球へのSOSは既に発信していたが、それが先方に届くのは……男は身震いして考えるのをやめた。そこへペイジーの足音がした。

 

「日光浴は終わったのかい?」

男は努めて明るく呼びかけた。ペイジーは三種類の動力源を選べたが、ここで頼りになるのはソーラー電池だけなので、一日のうち半日かけて、「昼」側で充電しては帰ってくるのだ。

 

「ハイ、ゴ注文ノ、くらむちゃうだート、ふぃれすてーきヲ、オ持ちシマシタ」

「…サラダは頼んでないぞ」

「栄養学的見地カラ追加シマシタ」

「世話女房だなあ」

ペイジーが言葉を返さないのを承知で、男は虚しく言った。ペイジーには、給仕が使う決まり言葉の語彙しかない。

 

この「一週間」の間に、男はペイジーに船の残骸から資材を運ばせ、半径数メートルで生活する設備をこしらえた。ペイジーが動く限り、食うに困ることはない。だが…生きている限り続く孤独な夜を、どう過ごせばいいのだろう?

 

男は技術屋で本は好きだが、衒学趣味の探査船船長のことは嫌っていた。だが今いてくれるなら彼でもよかった。スコット隊長は一人ではなかったから。もっとも今あの船長が生きていたら、男は彼を殺しかねなかったが。

 

「ペイジー」

男は食後のコーヒーを受け取り、急にかぼそい声で言った。

「なにか話してくれよ……」

男はそう言うと、にわかにこみ上げた嗚咽をかみ殺した。ペイジーは黙っていた。この誠実な給仕には、人を楽しませる能力はなかった。原始的なAIが機能の隅々まで探しても、指示に適応するものはなかった。指示と機能の間に葛藤が起こった……

 

*     *     *

 

救助船のクルーたちは、はるか昔に旅立った男の、孤独な最期を想像して心を痛めた。しかも彼の自由を奪っていたものは、地球の昼並みの光にさらすと簡単に崩壊したのだった。

 

その一方で、男が死の間際まで冷静な指示を下していたことに驚嘆した。男のいた場所は、四角いガトーショコラのような小型の墳丘墓になっていた。ペイジーはその後も「日光浴」を続け、救助隊の面々を迎えた。しかも一行は、薄汚れた骨董品のペイジーから、歓迎のもてなしまで受けた。すべては遭難者の残した指示だった。

 

しかし、救助隊はこの遭難の原因や、その後の経過の手がかりとなるものを何ひとつ見つけられなかった。隊長は唯一の「生き証人」であるペイジーの、記憶データの調査を命じた。

 

「給仕ロボットですから、食事の記録しかないと思いますが……」

「探査船のレコーダーは完全に大破しているし、こいつに記録するしかなかったはずだ。少なくとも偉大な開拓者の『最後の晩餐』は拝見できるしな」

隊員はおごそかにペイジーの記憶装置を抜き取り、船のコンピューターに読みとらせた。モニターにしゃれた筆記体のメニューが並んだ。隊長は目を見張った。

 

「…すごい量だな。赤いのが実行したやつか」

「…隊長、これは?」

「『バナナ・カスタード・パイ』だろう」

「いえ、その下です」

「…『新レシピ・解読不能・未処理・[白鯨]』?」

気をつけてみると、メニューとは思えないタイトルがたくさん混ざっていた。隊長はそのファイルを開いた。

 

「『イシュメールという若者が、すっからかんで港にやってきた…』」

「ほんとに『白鯨』のあらすじじゃないですか」

「暇つぶしに入力したんだろう。他のを見てみろ。遭難した経過をどこかに記録しているはずだ」

ペイジーに新たに入力されていた膨大な「新レシピ」には、現実の記録らしきものは見当たらなかった。日記も愚痴もなく、すべて要約された既成の物語で、子供に聞かせる昔話のようだった。報告を聞きながら、隊長は感慨深げに「新レシピ」のタイトルをなぞった。宝島、トム・ソーヤーの冒険、ピノキオ……

 

「やはり正気を失っていたのでしょうか」

「いや……」

救助隊長は寂しげに微笑み、隊員は首をかしげた。

 

話のできないペイジーは、ひたすら男の話を聞き、それを記録したのだ。すべてテキストに変換するだけで、それを再生して聞かせる機能はなかった。だがペイジーは、自分には解釈できない「解読不能・未処理」のデータをため込み続けた。(ペイジーに解釈できるのは料理法だけだ)

 

文字通りの話し相手にはなれなかったが、聞き手にはなれたのだ。壁に話す独り言とは違う。ペイジーは「記憶」する。

 

もしかしたら男は、意識的に不快な記憶を避けながら、うろ覚えの物語を語ったのかもしれない。そうして孤独や怒りに飲まれることを防ぎ、自分の正気を守ったのかもしれない。

 

救助隊長は自分のぼんやりとした連想をおかしく思った。彼はアラビアン・ナイトの語り手、シェヘラザードを思い出していた。一夜を過ごしては女を殺す王の元に赴き、毎夜面白い物語を語った。王は続き聞きたさに彼女を生かしつづけ、ついには改心する。

 

物語を語って自らの処刑を日延べにしたアラビアの美女。この「レシピ」の語り手は、こんな他愛ない連想を聞いたら何と言うだろう? ――きっと笑うだろう。そう思えた。

 

食事の記録から、男は約十三年間生きながらえたことがわかった。救助隊長は帰路ずっとペイジーの「レシピ」を読みつづけ、探査船遭難の原因を察した。

 

*     *     *

 

ペイジーは回収後まもなく機能を停止した。ロボットは最後に二秒ほど妙な音を出した。歌おうとしているように聞こえた。

 

「レシピ」は骨董品の給仕ロボットとともに、永久に保存されることになった。その惑星に人々が住み着くと、そこで生まれた子供たちが郷土の歴史として必ず学ぶ、教材のひとつとなった。

 

ところで「レシピ」には、もとの話と微妙に食い違うところがある。郷土史の試験に必ず出るのは、一番初めに記録された『白鯨』だ。

もとの物語では、捕鯨船の船長が、自分の足を奪った鯨への恨みに我を忘れ、乗組員を巻き添えに詮のない復讐を試みる。

 

 

「レシピ」のなかの『白鯨』では、船大工とキャビンボーイが狂った船長をやっつけて、乗組員を全員故郷へ生還させていた。