〈蛮族の王〉への視線―『ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』をめぐって―

②太陽の陵辱

「金の山はゆっくりと高さを増して行った。スペイン人たちは、いらいらと待ちながらも、同時にしたなめずりしていた」

 (『ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』ピーター・シェーファー/伊丹十三訳 劇書房刊 以下引用文は同書より)

原作戯曲には、「太陽の陵辱」と題されたシーンがあります。インディオたちが皇帝の身代金として運び込んだ黄金を、スペイン人たちが貪る…その様子を舞台的に表現したもので、ピサロがアタワルパに対して向けた視線とは対照的な、ヨーロッパ人の「蛮族」への二つ目の視線――征服し、略奪する対象でしかない未開人という認識――が描かれます。

そこでは可動式の象徴的な舞台装置が使われます。装置は直径三メートル以上の巨大なアルミニウムの輪に十二の花弁がつけられたもので、舞台中央に吊り下げられます。花弁の一つ一つには黄金の象眼があり、花弁が輪の中へ折りたたまれるとスペイン人征服者の紋章を刻んだメダルになり、花弁が開いた状態では黄金の日輪となって、インカを象徴します。以下はその部分のト書きです。

  …やがて彼ら(編注・黄金製品の搬入を監督していた三人のスペイン人)は太陽そのものを調べ始める。部屋から身を乗り出して、矛槍で花びらの部分を突いたりするうち、突然ディエゴが勝ちほこったように叫び声をあげ、後光の隙間に矛槍を差しこんで、埋め込まれた黄金の象眼を引き抜く。太陽は傷ついた大きな動物のような低い唸り声をあげる。
 卑しい喚声をあげて舞台前方の兵士たちも太陽に群がり、ばらばらになるまで引きちぎる。彼らは、黄金の象眼をてんでにむしりとっては地面に投げ落とす。太陽の世にも恐ろしい呻き声が空気を震わせる。瞬く間に太陽は一番外側の黄金の枠だけに剥かれてしまう。壊れた、暗い太陽。

 

「スペインのペルー征服」のイメージが、見事に表現されています。黄金を奪い、女たちを奪い、男たちを虐殺し、先住者のいる土地を自分たちの領土とした振る舞いは、まさに陵辱というのがふさわしいように思います。

…それに関連しては、科学的な証拠があるようです。ちょうどこの原稿を書いているときに、遺伝子を調べることによって先祖の経路を辿るという研究が、テレビで紹介されていました。偶然にもペルーの山間部と、南米全体のデータだったんです。

母から伝わるミトコンドリアDNAと、父から息子へ伝わるY遺伝子。この二つを調べると、遠い先祖の系統がわかるというのですが…。それによると、南米全体で原住民由来のミトコンドリアDNAを持っている人は約8割ほど。ところが原住民のY遺伝子を持っている人は1割に満たない8%ほどで、9割くらいはヨーロッパ由来のY遺伝子だというのです。(もっと具体的な数値だったのですが、うろ覚えのためおおざっぱですみません)つまり、ヨーロッパから大量に入ってきた男性たちが、先住民の女性との間に子供をもうけたことがわかるのだそうです。

…それにしてもY遺伝子の9割がヨーロッパ。原住民由来が1割にも満たないというのは衝撃でした。

  

…史実としては、このように暴力的な侵略が行われたわけで、インカ皇帝もスペイン人に処刑されているわけです。映画・原作でも最終的にはそうなります。しかし物語の中では、ピサロは他のスペイン人と対立してアタワルパの命を救おうとし、処刑せよと言う国王代理(遠征隊に同行している)とも対立します。

 

国王が一体俺になにをしてくれたというんだ?

俺がきんを見つけてくる。すると奴はその金の中から俺の給料を払う。

統治すべき土地を見つけてやる。すると奴は俺を統治者に任命する。結構な話だよ!

(中略)…もし俺がこの探検に失敗したとしても、奴はその高貴な羽を、

たった一とゆすりするだけで、俺のことを切り捨ててしまうだろう。結構じゃないか。

今度はこっちが奴を切り捨ててやる!

 フランシスコ・ピサロがカルロス五世(※)を切り捨てるのだ。帰って奴にそう伝えろ。

 

(※余談ですが、当時のスペイン王はカルロス(Carlos)一世。カルロス五世というスペイン王はいないようですが、神聖ローマ皇帝カール(Karl)五世がスペイン王を兼ねていてややこしいので、翻訳時あるいは原典の混同なのか、それともカールをスペイン語読みしてカルロスと呼び得るのかちょっと謎であります)

  

…しかしアタワルパは、自分の処刑をめぐってスペイン人が対立しても動じません。ピサロに、自分は神なので人間が殺すことはできない、翌日太陽の光を浴びればよみがえる、と言います。

それをピサロは信じる…というか、信じたいという衝動に駆られます。自分に充分報いてくれなかったスペインより、心に平安を与えてくれなかったキリスト教より、自分と同じBastardであるインカの神に救いを見て、その不死を信じたいのです。

 

――あの男を見ろ。いつもあんなに静かだ。まるで人生も死もこの男には歯が立たぬようじゃないか。

この男が本当に死を免れているとしたらどうだ 

(中略)…俺が神を狩りする旅に出て、神を生け捕りにしたのだとしたらどうだ。

自らの生命をよみがえらせ、よみがえらせてはとこしなえに生きる神を見つけたとしたらどうだ?

 

 親子ほど年の離れた「異教徒」アタワルパと、彼の語る「不死」。それらに老将軍が魅せられる。それは痛ましい、あらかじめ裏切られることがわかっている希望です。…ペルー征服の際に、ピサロがこの話のような感情を体験したとは想像しにくいですが、史実を探るのは演劇の目的ではないでしょう。歴史をモチーフにしたファンタジーとして、悲劇として、素晴らしい作品だと思います。
 
 とにかく、物語は予想されるように悲劇に終わります。しかしピサロにとっての「蛮族の王」は、略奪・陵辱する対象ではなく「それまで得られなかったもの・渇望しているものを与えてくれるかもしれない対象」に変わっています。
 なにかを渇望する、というのは、ヨーロッパから海を越えて「未開の地」へ出て行った男たちがすべてもっていた気分かもしれません。ただ、それは「与えられる」のでなく「奪う」ものであり、その「渇望するもの」は黄金や奴隷や香辛料、本国では望めないような富…であるのが現実だったはずです。しかし物語のなかのピサロが求めたのは、より抽象的・本質的なものでした。そのためにこの物語は普遍的なテーマを獲得します。
 彼が望んだのは死んだあとに続くもの、永遠の命ともいうべきものだったのです。

『③永遠の生命』に続く]