残念…!/にっぽんの芸能「踊れ、今こそ ~幸四郎と舞踊家 47人の挑戦~」感想

録画してあった『にっぽんの芸能』をやっと見たんですが、久しぶりに「うわあオレだったらこうするぅぅ~~っ!!」(映画とか見ててよくあるあの発作(^^;))があふれまくってしまったので、健康のために吐き出させていただきました。すべて踊りではなくCG合成に関しての「残念」で、書いてて申し訳なくなったのですが……CGクリエイターさんに他意はまったくありません! ほんとにごめんなさい。けっこう辛口になってしまったので、あらかじめご了承くださいマセ。(でも、これらを書き出す過程で学べたこともいろいろあって、勉強させていただきました☆)

 

番組のページはこちら❤

 

にっぽんの芸能「踊れ、今こそ ~幸四郎と舞踊家 47人の挑戦~」

 

番組内容は、一年がかりで準備してきた『夢追う子』という日本舞踊協会の舞台(オリンピック選手を夢見る子供をテーマに多流派の方々で踊る大掛かりなもののようです。事前の紹介記事はこちら)がコロナ禍で延期になってしまい、プロジェクトリーダーの松本幸四郎さんがそれを別の方法で形にできないかと考えたすえ、1人ずつ撮影した踊りをCGで合成してまとめることになり、その過程と出来上がった映像作品そのものを放映する、というものでした。もちろん幸四郎さんご自身もゲスト出演なさっていました。

 

 

 

打ち合わせから稽古、撮影、と経過を見せてくれて、コンセプトや意気込みに共感を覚えて期待が高まっただけに……最後に出来上がったものが残念過ぎて、ちょっとショックでした。最後の幸四郎さんの表情(その時完成品を初めて見たとのこと)は唖然としていたように見えたんですが、自分の気持ちが反映した色眼鏡でしょうか……?

 

 

まず素朴な感想として……「な、なんで背景ないの?(^^;)」――想像しようと思えば、時間不足、予算不足、打ち合わせ不足、あるいは予期せぬトラブル、いろいろ理由は考え付きます。が、見る側にとってそんなエクスキューズはないです。単純に、きれいに見えない。音楽の華やかさに対して、ただ人物のはめ込みテストをしただけで仕上げていない動画と見えました。

 

そして「な、なんでこんなに人物小さいの?(^^;)」真っ黒な背景に踊っている動画をクロマキー処理(というんでしたっけ。あのグリーンスクリーンで撮って合成するやつです)ではめ込んでいるのですが、いくらなんでも画面での人物サイズが小さすぎました。

 

こういう小さく切り取ってはめ込むアプローチ、もちろんオシャレに見える場合もありますが、それはTPOしだいで、今回のものに関しては効果的には見えなかったです。むしろ、顔の表情までこだわって収録された動画が台無し……(涙)と感じました。それに、どれくらいのサイズで鑑賞されるものだと想定したのかな、と。大きなテレビで見てもこれですから、もしネットで見たとしたら……スマホサイズでは人であることしかわからないでしょう。いわば「テクニックに淫して素材を殺してしまったデザイン」の好例に見えました。(いや、自分も似たような失敗はやるんですけれど☆(^^;))鑑賞に供するものとしてははっきりと失敗例だと思います。単に「コロナに負けずみんなで力を合わせたよ!」という記念にしても残念です。

 

人物動画のはめこみが小さいのに対して、挿入されたアマビエの絵のアニメ―トシーンだけが本来適切と思われる大きさであったことにも違和感が。秒数も長すぎました。あれでは印象として人間が食われてしまうし、「あれっ、アマビエが紛れ込んでる(笑)」ってくらいのさじ加減だと逆に効果的だったんではと思いました。(あ、これは自分もやってることなので自分の趣味のテイストにすぎないかもですが(^^;))もしかしたら、「何を見せたいのか」というコンセプトがきちんと確立できてなかったのでは……って生意気言ってごめんなさい。でもほんとに、素人目にもテスト動画に見えてしまったんです。

 

でも、合成コンセプトでいいなと思うところもありました。スタジオ収録できなかった方の動画をスマホの枠付きでそのまま入れる、というところです。これは部外者でないと出ない発想かもしれません。でもそれをもっと生かす方法はあったんではないかな……。こういうデザインを効果的にするには、哲学というかバックボーンになる価値観を作ることが大事なんだろうな、と思いました。これは自分にとっても学びでした。

 

自分は日舞に関しては「見たことがないわけじゃない」程度の素人で詳しくないのですが、パントマイム的な意味や情緒を持った所作が多いように思いますし、たいていストーリーもあって、少なくともただ動きを楽しむという踊りではないと思います。なので、今回完成したものから、もともとあったと思われる「夢追う子」というストーリー(あるいは「負けずに頑張るぞ」という情緒)を感じとることができなかったことも、自分の「残念感」につながったものと思います。(最近ドナルド・キーンさんの本とか、キーンさん宛ての三島由紀夫さんの書簡集とか読んでたので、ひときわそんな部分に敏感になっていたのかもしれません。本についてはまた改めて書きたいです☆)

 

たぶん、単純に時間が足りなかったんだと思いますが、きれいな背景が1枚あれば、あるいは背景を明るい色にするだけで救えた部分もだいぶあったんではないかと思えてなりません。あと、画面から切れるくらいのアップもあればよかったのなあと。ほぼすべてが全身像でしかも小さく、激しく動いているのに単調でした。群衆になった時とのコントラストも充分に出てなかったです。これは逆に「体の一部が切れないように」というルールを決めてあったのかしら? 確かに劇場中継なんかでは「いやーん、ここはアップでなく全身映してくれないとっ!」って時もありますが……でもやっぱり……「これはないだろ」感が拭えませんでした。(あああ書いててほんとに口幅ったい! あの合成だってテメーでやってみろと言われたらできません! ほんとすいません! でも正直な感想を書きとめておきたかったんです☆(^^;))

 


 

「古典芸能×デジタル」という試み、ここ数年いろいろ目にしています。最初は期待してなかったほうなんですが、中村獅童さんの初音ミクコラボ歌舞伎で見た「ニコニコ動画の観客の書き込みみたいなのが合成される演出」(えっと、あれニコ動そのものだったんでしょうか。よく知らないものでご容赦を。m(_ _)m)が、予想外に「江戸時代の猥雑な歌舞伎の熱気ってこんな感じだったのかも!」という感動があってすごくよかったので、最近は偏見を持たないように見ている……つもりです。まあこういうものは突き詰めると好みの問題、なんですけれど。

 

でも、デジタルを取り込めばなんでも、というのはもちろん違いますよね。試行錯誤の中にあって、成功したところ、失敗したところ、といろいろあるのが当然。ここがよかった、ここが残念だった、という感想を整理すること自体にも、自分の中で学べるものがあります。集団で何かを作り上げるのは大変なことですね。それだけに、うまくいったときの感動も大きいのだと思います。現在の自分にはそういう機会があまりないのですが。

 

幸四郎さん……個人的にはいまだに染五郎さんと言ったほうがピンとくるのですが(お父様世代の俳優さんのファンだったので、歌舞伎俳優さん全般を「自分がよく見ていた頃のお名前」でインプットしてしまっていて……ただいま観劇ブランクの長さを噛みしめているところでアリマス)、確かラスベガスでなさった大仕掛けの野外歌舞伎をテレビで拝見したことがありました。そしてやはりテレビでいつかやってた、菊之助さんのナウシカのドキュメンタリーも興味深く見ました。今回も菊之助さんらしき方がちらっと見えた気がしたんですが、参加なさっていたのかしら。(こちらも申し訳ないことに「丑之助くん」というイメージがいまだに……光陰矢の如しです☆)

 

…月並みなことを言いますが、野心的な試みには(いや、野心的でない場合でさえ)失敗のリスクはつきものですよね。もちろん姿勢としては最高を目指すこと一択だと思いますが、感じた欠けは今後の課題の洗い出しとし、「Nice try!」という敢闘賞として、これからも果敢に挑戦なさってほしいし、それを見たい、と思います。そして自分も頑張ろうと思える――ある意味そんな触発に満ちた番組でもありました。