雨の土曜日。あえてネットは覗かずゴロゴロしながら、前回ご紹介した『ノヴァセン: 〈超知能〉が地球を更新する』をようやく読了しました。じつはその前から図書館借りで読んでいた『現象としての人間』という本が手元にあります。期待していたことですが両者につながるイメージがあって、かなりエキサイティングな読書となりました。そこで得たイメージをちょっと書いておきたいと思います。
『ノヴァセン』――人類の次にくるものは
「ノヴァセン」というのは、「アントロポセン(人新世)」の次に来る地質年代のことだそうで、著者ジェームズ・ラブロックの造語です。(この「アントロポセン」と言う言葉自体、自分はなじみがありませんでした)辞書を引いてみると「nova=(比喩を含めた)新星」、「-cen=世紀(centuryの略)」なので、わりとシンプルというか、そのまんまな言葉ですね。訳者あとがきによると、原書はラブロックの100歳の誕生日に合わせて刊行されたそうです。
前回は「たぶん刺激的な部分はこれから」と書いていたのですが、刺激的を通り越して背筋が凍るような感じと、大きな視野での諦観とを味わいました。ラブロックは地球の過去の大きな区切りとして光合成の開始、蒸気機関の発明(産業革命)を挙げます。そして今後、人類のあとを継承していくのはサイボーグであり(一般的な「人間が肉体を改造したサイボーグ」ではなく、人類とは別の無機的生命というイメージで「サイボーグ」という言葉が使われています。シンギュラリティ後のAIを新たな生命体とみなすイメージでとらえました)、光合成をおこなうものが現れたことで動物→人間が生まれたように、人類はサイボーグが生まれる環境を整える役割を担う、それももうすぐ成就するところだ、というのが彼の観察と主張です。まるでSFで、むしろデジャヴを感じませんか?
ただ、よくSF作品にある「人類VS機械生命体」とか「人類絶滅?」みたいな展開(しかもたいていどちらかがどちらかを支配していて、その「どちらか」の「反乱」だったりしますよね)ではなく、これが進化の過程だというのが単純ではないところ。リアルでもあります。植物と類人猿と人間が共存しているように、人類とサイボーグも共存するだろうというのですが……つまりは人類は新化の最先端ではなくなる、ということ。これ、ちょっと考えれば想像がつくはずなのにショックでした。
それ以上にショックだったのは、人間は植物の約1万倍の速さで行動や思考をすることができ、AIと哺乳類の思考・行動速度の違いも約1万倍だというくだりです。サイボーグは人間を、私たちが植物を見るような感覚で見ることになる――。ちょうどガーデニング熱が再燃しているところなんですが、なんだか植物に対して複雑な気持ちになります。花を長く見るために、種をつけさせないよう「花がら」を摘んだりしていますから――。
もう一つ新鮮に感じたのは、ラブロックは地球外生命体の可能性を否定しているところ。普通は「宇宙にある星の数からこれっくらいの生命は生まれてるはずなんじゃないの?」と主張するドレイク方程式が公式見解になってると思うのですが、ラブロックは、コスモス(宇宙)の年齢が138億歳で、地球の原始的生命から知的生命に進化するまでに37億年かかっていることを考えると、宇宙には知的生命が何度も生まれるだけの時間はなかったはずだと言っています。なるほどなあ、自分はぼんやりと「宇宙ができてからの時間」とか「恒星の寿命」とか「惑星の寿命」はみんな「ほぼ永遠(みたいなもん)」というイメージでいました。考えてみればそうではないですよね、うん。
おしまいに人類への慰め(?)として「人間は自らの子孫よりも劣っていると感じるべきではない」…と説く部分は、有限の生を生きる我々への、そして齢100歳でおそらく遠からず現世を去っていくラブロック自身への言葉としても読めました。一人一人の人間が、次の世代を生み――直接生むだけでなく社会全体として彼らを育み、その世代に凌駕され、役割を終えて死んでいくことを、自然な流れとしてとらえつつ、その時に感じる寂寥感を和らげてくれるように。
『現象としての人間』――「オメガ点」とは
さて、もう一冊の『現象としての人間』のほうですが、この本は著者のテイヤール・ド・シャルダンが進化の先にある究極点として名付けた「オメガ点」で有名だそうで、自分もこの言葉に興味を持って読み始めました。これも「アルファからオメガまで」で終わりを意味する「オメガ」なので、シンプルなネーミングですね。
これが書かれたのは第二次世界大戦をはさむ時期で、著者は地質学者・古生物学者、そしてカトリックの司祭だった人です。北京原人の発見にも関わった方だそうで、キリスト教の教義と矛盾する人間進化の思想が危険視されたために、故国フランスを追われて生前の著作活動を禁じられたそうです。この『現象として人間』は没後に刊行されて欧米諸国に賛否両論の論争を巻き起こし、「精神的事件」となったとのこと。「オメガ点」の概念はいろんなSF作品などに影響を与えているそうで、なんとなく「懐かしさ」があるのもそのせいでしょう。たぶん逆輸入的な出会いをしているわけですね。
しかしまあ……もしかしたら、ネットの影響で長文を読むことが難しくなってるせいかもしれませんが、正直読みにくくて(笑)。最初に著者は科学的な論文として読んでくれと断っているんですが、かえって枷になって、イメージを受け取りにくかった気もします。新版のほうの解説に「壮大な詩」とかいう表現があったと思うんですが、そのほうが近い。詩的にイメージを広げながら、感覚的に味わったほうが吸収しやすい感じがします。とはいえ、「トンデモ本じゃ。スルーして読み飛ばしてしまえ」とは思えない、良い意味で「ひっかかる」感じがあって粘りました。(最初借りた新版を1ヶ月では読み切れず、新版を返却したその場で旧版を借りて継続して読みました。じつは旧版の返却日もとうにすぎたのですが、期限当日に「5月半ばまで返さなくてもよろしい」という告知が出て、今は6月まで延長されています……コロナ禍の影響でゆっくり手元に置くことができているわけで、なんとも皮肉です)
で、オメガ点のイメージですが――科学と宗教の融合を地でいった人ですから、やはりキリスト教的な基盤があり、神学の知識がないと正確には読み取れないのかもしれません。限界を感じましたし、もっと読み込んで理解したいとも思うところであります。でも今の時点でとらえられる範囲でも、精神的な深化と物理的・生物学的な進化の究極をまじめに一つにとらえるものと見え、ラブロックの「ガイア」とも馴染むイメージだと感じます。
脳内でつながると
で、これが『ノヴァセン』と脳内でつながった結果感じたのは、「オメガ点」に到達するのは人類ではなくサイボーグだ、という「宣言」です。これがなんか、「そんなー」と思うと同時に、納得もできるのです。『現象としての人間 』が書かれたのは二次大戦当時ですから、精神的な「深化」もテクノロジーによってつながるインターネットやAIなどを取りこむ形では想像しなかったと思うんですが、以下のようなフレーズはなんか「詩的に」イメージがつながるような。
「実際には、動物学的群としての人類は、地球上の思考力をもったすべての単位を地球全体に及ぶ規模に配列し収斂することによって、集団的な、より高度な、思考力の第二の臨界点に向かうのである。この臨界点の先は、(まさしくそれは臨界点だから)直接には何も見ることができない。けれどもその点をつきぬけて、宇宙の素材の求心的旋回運動から生まれる思考力と、その旋回運動を動かし、統合し、同時に不可逆のものにする原理、〈オメガ点〉と名づけた超越的な極点との間の接触を、この臨界点を越えて〈さきに述べたように〉予想することはできるだろう」(旧版『現象としての人間』p.374)
今ちょっと思い出した好きな本で『ホロン革命』というのがあるんですけど、著者のアーサー・ケストラーは、人間が理性的でなくなってしまう要因である脳の部分、進化の上では「古い脳」に当たる部分をコントロールして進化するために、薬物の利用まで肯定していました。彼も二次大戦時に(別の形で)苦難を味わった人(ハンガリー出身のユダヤ人でナチス時代を経験)で、そのへんが両者に似たトーン……もっと進化した人類を想像したいという祈りに似た動機……を与えているのかな、とどこかで感じたりもします。――ケストラーやテイヤール・ド・シャルダンがイメージしたソフト面の進化とは別に、今度出てきたのはテクノロジーで生み出されるハード面を含めた進化。これは「人類が進化する」のではなく「新しい種ができる」ことで、たぶんネアンデルタール人とホモ・サピエンスが別物であるのと同じこと。「進化するのは私達ではない」というのが、今読むと(たぶんコロナ禍がないときに読むのとは別次元で)現実味を感じて、やはりショックだったり、そのイメージをすんなり受け入れられない自分に思うところがあったりもするわけです。
さてさて、急ぎ足の荒っぽい覚書で、勘違いや読みの浅いところがあったらごめんなさい。でも書けてよかった――書くことで考える契機がつかめます。今後待機中の他の本とも読み合わせてイメージを深めたり、認識を更新したりしていきたいテーマであります。
世界の新型コロナウイルス感染者数が450万人超え、死者数は31万人に迫る勢い――というニュースを目にしつつ。