営みとして/『ゴッズ・オウン・カントリー』感想

文句なしの傑作でした。ゲイを扱った映画ではあるけれど、予想したような意味では「ゲイ・ムービー」とも「ラブストーリー」とも感じなかった一本です。描写の生々しさを考えれば立派に(?)「ゲイ・ムービー」ですし、チラシには「ラブストーリー」と書いてあるんですけれど。腐女子の自分にとっての「萌え」はほぼなく、それでいて力強く感動的で、引きつけられる映画でした。

 

むしろ強く感じたのは、人の「営み」とはこういうものなんだ、という感覚。そう教えてもらった、もっと言えば「突きつけられた」という感じです。日々働いて生きていくという現実に、ゲイの主人公のリアルを「普通に」織り込んで、むしろ異性愛の映画ではありえないほど、地に足のついた形で表現していました。ゲイの「Equality」(平等/同権)を超えた、新しいレベルのゲイ・ムービーだと思います。それと同時に、少し苦い思いも湧きました。以下の感想では、設定や途中までのなりゆきに具体的に触れますのでご了承ください。

 

さて、主人公はイギリスの田舎の畜産農家の息子ジョン。体が不自由になった父、祖母との三人暮らしです。住居と牧場は人里離れた荒涼とした所にあり、彼はそこを実質ひとりで切り盛りしている…というより、たぶん「させられている」という感覚で働いています。牛や羊への態度を見ると仕事自体を嫌っているわけではなさそうですが、状況に憤りを持っている様子です。

 

一家は彼が頼りですが、父は人格的に不器用な人で、自分が思うように動けない歯がゆさから息子には小言ばかり。そんな父と折り合いがいいわけもなく、ジョンはときどき町のパブに行っては飲んだくれます。行きずりの若者とトイレで手っ取り早くファックをし、相手が好意を見せてもそれ以上の(人間的な)関係は拒絶。そして帰って二日酔いで吐いては祖母にたしなめられる生活。彼がゲイであることは、もちろん父も祖母も知りません。主人公のすさんだ精神状態と息の詰まり具合が、最初のシークエンスで強烈に伝わってきます。

 

羊の出産のシーズンになった牧場はジョンだけでは人手が足りず、父は人を雇います。やってきたのはルーマニア人のゲオルゲ。ジョンは「ジプシー」と蔑みます。ちなみにジョンがパブで引っかけていたのは金髪の軟弱そうな色白美青年タイプ。ゲオルゲは黒髪の髭面で、出会ったときに「そういう脈」がありそうには見えません。物語はこの二人の関係の変化、そして月並みな表現ですがジョンの成長を描いていきます。

 

ジョンはふてくされたところ、不器用なところ、反抗とないまぜのあきらめ、子供じみたところ、そして外見も含めて、リアルな「田舎のあんちゃん」に見えました。でも、よくありそうな「ここから抜け出して都会に行きたい」というところは見られません。あるいは昔そう思った時代もあったのかもしれませんが、そんなことはもう「現実」の遙か向こう。大学に進んだ女友達とのシーンが構図をわかりやすくしてくれます。この映画、そういうさりげない状況説明がものすごくうまいうえに、シーンに重層的な意味を持たせたり、風景だけのシーンが情感を伝えたり、といった映画ならではの醍醐味が満載です。

 

「地に足のついた」ところを理屈なしで伝えているのは、生々しく描かれる牧場での労働です。羊や牛の出産があんなに大変なものだとは知りませんでした。本当に命がけなんですね。ジョンが出産前の牛のなかに腕まで手を入れるシーンが開幕早々にあり(ちょっと『動物のお医者さん』が頭をよぎりました)、生き物を扱う仕事をダイレクトに見せると同時に、ジョンの性的な側面、のちのゲオルゲとの関係などを予感させます。そして物語を通じて、そのいずれもが自然の営みとして同等だ、と感じさせます。この映画を特別なものにしているのは、この労働の描写の持つインパクトそのものと、そこに別の「意味」をオーバーラップさせた映画的表現の力強さ。そして異性間の営みの結果である「出産」が二人を結んでいる構図も、実に「うまい」と思います。パンフレットの監督のインタビューにはサウンドに心を配った旨も書かれていて、なるほどと思いました。強烈にリアルな感覚を持たせてくれました。

 

ただ、個人的にちょっぴり苦さを感じた点は、ゲオルゲが外見や言動の男くささにもかかわらず、あまりに都合のよすぎる「天使」に見えたことです。以前海外の記事で、「白人を助けてくれるステレオタイプの黒人キャラクター」がナントカと称されていて(すみません、覚えていません)、ハリウッド映画に黒人を出すことが増えたと言ってもそういう描写になりがちじゃん、という指摘を見かけました。それと似た、「イギリスの白人にとって都合のいい外国人キャラクター」に見えてしまったんです。移民問題がこれほど取りざたされる今ですから、なんとなく流れとして出てくるパターンなのだろうか、という感じもしました。

 

ゲオルゲはジョンの「ジプシー」呼ばわりをやめさせる精神的・肉体的な強さを持っていますが、他国からイギリスに来た肉体労働者という弱い立場であり、一方で牧場の仕事ではジョンをはるかにしのぐ経験・知識・技術を持ち、得意ではなさそうですが進んで料理もし、ジョンとの性的な関係を受け入れます。最後のは別にいやいやながらには見えませんし、強制されたわけでもないのですが、最初に受け入れる直前の「やれやれ」という苦笑のような表情が印象的です。年上に見えますし、ジョンのそういう面も見抜いていたようです。この最初の出来事はジョンが行動を起こすわけですが、恋愛でも誘惑でもなく、むしろマウンティングと欲求不満と、絶望感からくる自暴自棄が混ざって暴走したものに見えました。時を経るにしたがって関係は情のあるものに変わっていき、ゲオルゲは受け入れるという以上に(たぶん意志をもって)ジョンを癒やしていきます。これがそれまでに彼が見せた羊のうまい扱い――つまり経験と技術に裏打ちされた自然で現実的な命への慈愛、生き物への黙々とした「本気の関わり」を彷彿とさせます。

 

でも二人を並べると、背負っている状況の重さは、自国を出てイギリスで差別を受けながら働かざるをえないゲオルゲのほうが、ジョンよりよっぽどハードに見えます。それに淡々と耐える強さ、忍耐、仕事面の有能さを併せ持つゲオルゲ。ジョンは裕福ではないけれど牧場の経営側の立場であり、ゲオルゲとの間には雇用者の息子と被雇用者という関係があります。もちろん二人の場合は年齢や経験で立場が逆転しているし、依存関係としてはジョンの側が彼を頼るようになっていくのですが。

 

ゲオルゲの忍耐と有能さ、あくまでジョンを助ける存在であるところは、これが女性ならまさに封建的な意味での「いい嫁」じゃないか……と自然につながってしまって、どこかで「やりきれない」感じもしました。へんな言い方になりますが「弱い立場の人間はここまで有能で忍耐がないとだめなのか」――というような一種の反感です。スーパーマンじゃなきゃできねえよと思うようなことを、「やって当たり前」と押し付けられ、しかもやっても評価されることなどないという状況は、女性が――いや、女性に限らず相対的に弱い立場にある者が、相対的に強い立場にある者から無茶な負担を強制される構図として、至るところにあふれていますから……。

 

でも。映画のなかのジョンとゲオルゲの関係は、ラストに向かっていくにつれて「ここで表現しようとしているのは、理想ではなく現実の延長としての希望なんだ」と受け止めることができました。この「現実感」がたとえば『モーリス』がああいうラストであることの価値と少し違うところ。確実に時代が変わってきたことを感じます。そして彼らの関係に織り込まれたもの――生活をするために相手が必要だという要素、性的な関係、相手への情――それらがないまぜになるこれって、愛と生計を一緒に実践することであり、実質的に結婚生活そのものじゃないでしょうか。決してゲイだからではなく。だから、「ラブストーリーという商品」を漠然と「生活感とは水と油のもの」と予想していた自分には、当初この映画が「ゲイ・ムービー」とも「ラブストーリー」とも思えなかったのだと、今になって思います。

 

ここで描かれたものは「カップルの関係」を超えて、あらゆる関わり合いが持つリアリティに通じるもので、否応なく自分の人生を見直すことも強いられました。多くの方がそうではないかと思います。立場も状況も違っても、他人事ではないのです。思えば心に響くゲイ・ムービーには必ずこういう要素がありますね。

 

そんなわけで、本当に「突きつけられた」ような映画でした。が、自分にとって切実な救いもありました。当初のジョンは、しぶしぶ仕事をこなしながら自暴自棄に陥っています。(前述のように、仕事を嫌っているというより、父に頭を押さえつけられているような状況=自分に仕事上の決定権がないことが憤りの核にあったと思います)そして彼は、ゲオルゲとの出会いと家族のなかでの自分の立場の変化を通じて、状況に正面から向き合うようになっていきます。リアルなのは、この変化が決して「彼個人が心を入れ替えたから」なんてことではなくて、周りの状況が変化して、それが彼に変化する契機を与えていることです。そうして初めて、彼は自分の人生を自分の望む方向に進めていくための自主的な行動に出ます。成功するか失敗するかわからない、そういう一歩を踏み出すのです。

 

「ああ、生きるってこういうことなんだ」という感動がありました。ジョンはたぶん二十代でしょうけれど、倍くらい生きてもいまだに自分はそういうレベルで四苦八苦しているんだなー……とも気づきました。ナサケナイことではありますが、たぶん一生の課題。自分にとってこれは特別な一本になりそうです。

 

末筆ですが俳優さんについて。主演二人は初めて見た方でしたが、父親役がイアン・ハートでびっくりしました!こういう役をなさるようになったのですね……。パンフにあった『バックビート』のジョン・レノン役は正直忘れていましたが、個人的にはワトスン役が印象に残っていて、その延長でコナン・ドイル役をやってくれないかなーと長年思っている俳優さんです。目の意外な鋭さというか、そのへんの雰囲気が似ているので……。「等身大ワトスン」と揶揄されたというドイルせんせにはうってつけではと。(役作りかもしれませんが)お肉のついた今の姿を久しぶりに見て、ますますその思いが強くなりました。祖母役の女優さんも、最近『恋のロンドン狂騒曲』でかわらしい初老の女性役を見たばかりでした。高齢のキャラクターもステレオタイプでなくて、こう幅があるのはいいなあ……なんて思いました。 

 

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じつはこの映画を見ることができたのは、上映館に近い古書店に置かれていた上映スケジュールのリーフレットを偶然見つけたためでした。だいぶ前にマーク・ゲイティス氏(『SHERLOCK』脚本・製作・マイクロフト役。リアルでゲイの方)がTwitterでこの映画の情報をリツイートしてくださっていたので、写真に見覚えがあってパッと手が伸びました。(ネットを見る時間がかなり減っているのですが、ゲイティス氏のTwitter――プロフィール画面をブクマしてしばしば見ています――は、自分にとって信頼の情報源です。ありがとう兄❤)

 

でもその時は日本で劇場公開されるなんて想像もせず、運が良ければ日本版DVDで見られるかなー、でももっと高い確率で、輸入DVDでも買って見るしかないんだろうなー……くらいに思っていました。こういう映画を劇場で見られるなんて、自分にとって贅沢な時間でした。この映画館自体も足を運んだのは久しぶりでしたが、単館ロードショー系の良質作品をやっていて、他の同様の映画館のチラシもたくさんあり、またちょくちょく行きたいなーという場所が増えました。これも嬉しいことです♪

これがなければ、おそらく日本で上映されていることも知らずにいたと思います。思い出のリーフレットです❤
これがなければ、おそらく日本で上映されていることも知らずにいたと思います。思い出のリーフレットです❤