癒される/『モーリス』4K版鑑賞してきました。

アレック・スカダー
今回のチラシをゲットし損ねたので、代わりに過去絵を掘り出して少し手を加えてみました。(今ならこうは描かないかもしれないな、とは思いますが……(笑))アレック・スカダーを演じたというだけでもう、ルパート・グレイヴスは永遠です。(断言)

今回の上映について

4K版『モーリス』劇場公開、うちから唯一行けそうな恵比寿の最終週になってしまいましたが、滑り込みで鑑賞して参りました! ほんとに行って良かった……大げさに聞こえるかもしれませんが、生き返りました。ほんとに。こんな映画を作ってくれてありがとう……!そう改めて思いました!

 

やはり好きなのでDVDではしばしば見返していますが、今回は4Kだからというより「劇場で見る」というのがやはり特別でした。……真っ暗な空間で集中して大きなスクリーンで見ることが。そして暗い中でちょっと恥ずかしく思いながら涙を拭いたときに、隣の知らない人も目にハンカチを当てる仕草をしているのがそれとなく目の端でわかったことが――今回の鑑賞をとても素晴らしいものにしてくれました。

 

この作品、見返すたびに違うところに目がいったりもする作品です。今回すごく感じたのは(ちょっとこういうことを書くのは恥ずかしいのですが)、美と品のよさは人を癒やすのだなあ……ということでした。美しく品があり、かつこういうテーマで良質の作品にどっぷりと浸る時間の、なんと贅沢なことか。

 

(品という言葉は使うのが難しいのですが、キャラクターが上流階級かどうかとか、肉体的な露出度とは関係なく、という意味で。上流階級を描いても「安い」作品はたくさんありますよね)

 

それだけ落ち着かない日常を過ごしているのだなーと自覚したわけですが(^^;)、そういう生活のなかでこそ、こういう時間は絶対に必要なものだとつくづく感じました。心のゴハンなのですよね。

  

以下は作品そのものについて、以前薄い本にルパート・グレイヴスがらみで書いた紹介レビュー(定番作品なので紹介というよりおさらい、という感じで書きました)に、今回感じたことを交えて掲載します。ちょっと文章のノリが変わりますがお許しくださいませ。また、おさらいと言う性質上、ラストについても方向性にぼんやりと言及しているので、未見の方はどうぞご判断くださいませ。

 

 『モーリス』(1987)――作品について

左は輸入盤。特典インタビューなど充実した二枚組でした。ジャケットも「その瞬間」て感じがしていいですね。右は日本のHDニューマスター版。特典が予告編だけなのが残念でした。てっきり輸入盤についてた特典に字幕をつけてくれると思っていたので………今からでもぜひ!
左は輸入盤。特典インタビューなど充実した二枚組でした。ジャケットも「その瞬間」て感じがしていいですね。右は日本のHDニューマスター版。特典が予告編だけなのが残念でした。てっきり輸入盤についてた特典に字幕をつけてくれると思っていたので………今からでもぜひ!

イギリスの上流階級(と、その使用人階級)の同性愛者を描いた、80-90年代当時の耽美好き女子――腐女子という言葉はまだありませんでした――にとってエポックメーキングだった伝説的作品。『アナザー・カントリー』とともに英国貴公子ブームを作りました。輸入盤にあった特典映像のインタビューでは、俳優さんたちが公開当時日本のファンからたくさん手紙をもらったと話しています。世界でも特に熱狂的に反応したのが日本の女の子たちだったのでしょうね。

 

物語の時代背景は二十世紀初頭。ケンブリッジ大学(実際にケンブリッジで撮影されたそうです)で同性愛に目覚めたモーリスという青年が、彼を同性愛に引き込んだ青年クライブとの確執や、社会的葛藤に揉まれた末、猟場番の美青年と出会います。

 

主人公のモーリス・ホールを演じたのはジェームズ・ウィルビー。(特典映像での薄毛っぷりに、時間の経過をしみじみと感じました……)当初ジュリアン・サンズの予定だったのが変わったのだそうです。変わってよかったのでは。原作では体に頭が少し遅れてついていく感じの好青年なので、ウィルビーさんのルックスのほう似合っていると思います。

 

クライブ・ダラムはヒュー・グラント。(今となると「こんなに可愛い時代が」…という感じも(笑)。今回のポスターではおヒューさんを大々的にフィーチャー。海外盤の新しいジャケットがこれみたいです)猟場番アレック・スカダーがルパート・グレイヴス。(可愛いどころの話じゃ……!(震)

 

監督は、自身ゲイのジェームズ・アイヴォリー。プロデューサーのイスマイル・マーチャントとは公私ともにパートナーであったそうで、この映画も二人で設立したプロダクションの作品です。マーチャントは2005年に亡くなりました。

 

原作はE.M.フォースター。この方も自身がゲイだったイギリスの作家で、書かれた当時のイギリスでは同性愛は犯罪だったため、この『モーリス』は死後に初めて公けになりました。ほかにもゲイをテーマにした小説は密かに書いていて、(好きなのであちこちでご紹介しているのですが)『ゲイ短編小説集 (平凡社ライブラリー)収録の『永遠の生命』は大変オススメです。こちらも死後に公表された作品です。(私事で恐縮ですが、この作品と『ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』に触発されて書いたのが拙作『王殺し』でした)

 

初回の鑑賞では原作からの脚色、次は原作者の立場と、見るたびに注目する点が変わってきました。最初は直球の同性愛描写自体が衝撃的でしたし、俳優さんの美しさに幻惑されて()、それである程度おなかいっぱいでもありました。アレックも、以前は主人公にとってのタナボタの天使としか映りませんでした。でもその後だんだんと……そして今回も、グレイヴスが俳優としても上手かったんだなあ、としみじみ思いました。現実的なところと子供っぽさがキメラのように入り混じったアレックの気質が、見事に表現されていました。

 

アレックにとっては、おそらく同性愛が違法であることより、階級社会のほうが大きな問題なのでしょう。イギリス社会で使用人という弱い立場にある彼が、非常に「生意気に」振る舞っていたことを、だんだん深く理解できるようになりました。アレックがモーリスと対等であろうとするところは、作品のなかでも好きな部分です。彼は身分の違いを当たり前のことだとは思っていないし、身分が上のモーリスに対してもアグレッシブです。当時のイギリスの「使う側」から見たら、使用人は動く置物と同じで人間ではないも同然です。映画の中でもそれがいろんな形で描かれます。その「使用人」の一人である猟場番のアレックが、「お客様」で「紳士」であるモーリスに「誕生日おめでとう」というのは、不遜以外のなにものでもありません。置物が人間並みに振る舞ったのです。モーリスの戸惑う様子がそれをとてもよく表現しています。

 

アレックが「人間として」モーリスに示した好意は、最初はことごとく歪曲されて伝わってしまいます。彼にとっては「金を受け取らないこと」がその一線なのでしょうね……それがチップを受け取らないという形だとしても。この感覚はよくわかります。好意でしたことに金銭で報いられたら、人は侮辱と感じるものです。

 

ちょっと角度は違うのですが、『アパートの鍵貸します』のヒロインを思い出しました。愛人の既婚者から、クリスマスプレゼントの代わりに100ドル札を渡されたフラン・キューブリック嬢の絶望感――アレックの立場・心情の変奏です。

 

アレックは使用人で、「奉公先の当主の友人」であるモーリスとの同性愛関係を望み、それを叶えます。フランはエレベーターガールで、重役の既婚者に恋をし、彼の愛人になります。二人とも相手と比べて社会的立場が弱く、その恋愛のあり方は前者は同性愛、後者は不倫で、社会規範に照らして恥ずべきものとされています。

 

二人は相手を真剣に愛するけれど、かたや使用人として、かたや正妻でない愛人として、相手から無意識の(アレックの場合は、一部は意識的な)差別/侮辱を受けます。フランは自殺をはかり、アレックは脅迫を演じます。違う形で表出するけれど、これは同じ、悲しい怒りの表現です。

 

アレックの行動は、普通に考えたら最初から脅迫目当てでしょう。以前見た時は、そうならないところに「いい夢見すぎ」と感じたのですが……時間がたつと見方も変わるものですね。(笑)でもこれは、原作者のフォースターがこのように書いています。

 

ハッピーエンドにするのは必至であった。そうするのでなければわざわざ書きはしなかったろう。

虚構の世界(フィクション)の中ではあれ、二人の男が愛し合うようにし、

二人の愛をそのフィクションが許すかぎり永遠に存続させようと私は決めていた。

(E.M.フォースター『モーリス』作者あとがき 片山しのぶ訳

 文庫版[扶桑社エンターテイメント] p.366-367)

 

そしてそれゆえに(つまり同性愛者が悲劇的な結末を迎えて罰せられる形にならないために)、出版することが難しくなってしまった、と書かれています。その結果が死後の出版なのですね。

 

話を映画に戻しますが――アレックはいっぱい傷ついてもきたんだろうな、と思います。あれだけ可愛い子ですから、金持ちのスケベジジイに目をつけられたこともあったんじゃないかと。(ちょっとだけ出てくるアレックの父親は、息子のそういう問題点を知っているように見えます。台詞なしに、モーリスを見る顔だけでその懸念を表現した俳優さんの力量に感服!)

 

犯罪である同性愛関係を盾にして「紳士」を脅迫し、金をせびりとれることを、アレックは(過去に実行したかどうかはともかく)知っています。そうして自分の弱い立場を、自分に対してごまかしていたんだろうな、という感じがしました。

 

彼は感傷的な人物ではないので、心の傷が全て反抗心に昇華するように見えます。だから、冷静になったモーリスがアレックを警戒して階級差を盾に身を守ろうとすると、傷ついたアレックは不本意にも恐喝という武器を持ち出すしかないのです。 

原作文庫版。作中ではありえないスリーショットなので、純粋に宣伝用写真ですね。見る立場から言わせてもらえばお得な一枚でもあります。(笑)
原作文庫版。作中ではありえないスリーショットなので、純粋に宣伝用写真ですね。見る立場から言わせてもらえばお得な一枚でもあります。(笑)

お互いに脅しながらちぐはぐな感情を見せるロンドンでの二人のシークエンスが、今回すごく印象に残りました。博物館で昔の先生に会ったモーリスは、自分を「スカダー」だと言いますよね。あの意味はどういうことなんだろう、そもそも原作にあったっけ……?と思いまして、そこのところを読み直してみました。そしたらあるんですね。原作は一度読んだきりなので、「すごく原作に忠実に撮られているんだ」、というのも改めて認識しました。

 

…「いや、私の名前はスカダーでして」思いついた名前が勝手に飛び出した。

あたかも使われるのを待ちかまえていたかのように。

モーリスはその理由を理解した。(前掲書 p.329)

 

(余談ですが、時節柄(?)今回は「あ、まさに「君の名前で僕を」呼んでるなあ」なんて思いました。本当は今週あちらを見に行くつもりだったのですが、最終週だったのでモーリスを見に行きました。これから見に行くつもりです♪)

 

人は誰かから拒否されれば傷つく。

傷ついた人間は周りの人間も傷つけようとする。

 逆のサイクルを回すのは常に捨て身の行為であり、相手が応じるとは限らない。だからそれが互いに受け入れられることは奇跡であり、モーリスはアレックと出会えたのは奇跡だと言います。でもそれは、出会ったことが奇跡というより、彼らが行動によってそれを奇跡にするのでしょう。

 

映画の前半にモーリスがやっていたことを、後半でアレックがなぞっているのも、面白いと思います。彼らは初めて恋人の元を訪れる際は「窓」から侵入し、より「現実的」になっていく相手を振り向かせようとします。象徴的なものを読み取ることもできそうです。

 

それとヒュー・グラント演じるクライブ。彼の苦悩の過程に、年をとるにつれてすごく感情移入できるようになってきました。じつはクライブは、モーリスと肉体的に結ばれることなど、はなから望んでいませんよね。べつに不誠実なのではなく、初めから理想がそういう「プラトニックな」愛。…クライブが言う「プラトニック」は文字通り「プラトン的な」で、学生時代の彼はプラトン哲学とギリシャに心酔しています。「理想のプラトン的愛」を、モーリスに押し付けたわけです。そのクライブが、ギリシャへの一人旅で過去の自分と決別するのは、とても象徴的です。

 

クライブは弁護士になったとき、同性愛容疑で逮捕された同窓生、リズリー子爵の弁護を拒否します。現実的な判断ですが、それに加えて自分自身が同じ立場になりかねない恐怖と、自分の偽善的な面に対する嫌悪もあったでしょう。彼はその板ばさみでブレイクダウンしてしまいます。精神的な動揺が体に影響を及ぼす、つまり頭が体を支配する人。クライブはそういう人間だからこそ、生き方を修正できます。でも実は、元々「プラトニックな愛」が理想なので、大きく変節はしていないのかもしれません。ただ世間と折り合いをつけただけです。

 

ところで、自分の夫の着替え姿から、汚いものでも見たように目をそらすのは、当時の上流階級では当たり前だったのかしら……? そうとも思えないのですが。そのへんから、「クライブとアンにじつは性生活はないのでは?」というのは以前から漠然と思っていました。今回「アンとはギリシャで知り合った」という部分を初めて意識しまして……もしかしたら、アンはクライブと同様に「プラトニックラブ」を解する女性で、そのへんをお互いに理解して結婚したのかしら、なんてことも思いました。ちょっとうがち過ぎかもしれませんが。

 

でも、「もしそうだとしたら」、あの頭でっかちのクライブ――プラトニックラブを信奉していて、かつ世間と折り合いをつけたいクライブは、まさに「理想の女性」と結婚できたことになるかもしれない。しかもそこにちゃんと愛情はあって、妻はちゃんと夫を「愛している」のですから。…でもそうだとしたら、クライブはそれをモーリスに言うはずですよね。だからこの説はまあないかな、とは思いますが、でも別の次元で「そういう夫婦があってもいいじゃないか」、と思う自分もいたりします。(余談ですが、あの女優さんは有名なモキュメンタリー『第三の選択』にも出ていましたね(笑))

 

このブログでも何度か言及していますが、イギリスで成人同士の同性愛行為が違法でなくなったのは、意外にもわりと最近のことで1967年です。法律ではそうなりましたが、以後も差別は続いていて……これはマーク・ゲイティスさんのツイッターから知ったのですが、つい数年前の2011年にも、イギリスのある地方のパブの店員が、ゲイであるという理由でリンチに遭い焼き殺されるという、信じられないような痛ましい事件が起こっています。これもキリスト教圏でのゲイの現実なんですね。大変ショックでした。

 

頭で愛を定義しているクライブは、頭で生き方を修正します。モーリスにはそれができません。無意識に自分がした行動の意味を、頭で理解するのはずっとあと。対照的な二人です。その食い違いが、やがて二人の間に大きく溝を作ります。

ラストのカットバックは、何度見ても涙腺にくる切なさがあります。

 

 人は自分がした行為に対するリアクションに直面する。それに対して、また自分のリアクションを返す――その連続で道ができていくんですね。とても深い映画、そしてやっぱりお宝な映画でした。

 

もう一度言います。こんな映画作ってくれてありがとう……! 

 


今回は劇場も昔何度か行ったところで懐かしく、立地の恵比寿ガーデンプレイスが落ち着いた環境であったこと(加えて平日の午後だったので人が少なくて雰囲気がよかったこと)、映画のあとにベンチで鳩にお菓子をあげてのんびりしたこと(こんなことめちゃくちゃ久しぶり!)――なども含めて、「体験」としても特別な午後になりました。恵比寿の公開は終わりましたが、これから全国順次公開していくそうです。上映スケジュールなどはこちらをどうぞ。 

 

モーリス 4K 日本語公式サイト