(本文前エピグラフ)
それは歴史家と、彼の目に映る事実との
絶えまない相互作用のプロセスであり、
現在と過去との間で交わされる、果てしない会話である。
『歴史とは何か』E.H.カー
1. 《2015/ハロウィーン》
『だめよイアン。こういう日に一人でいちゃ。来なさいよ』
「予定はあるんだ。パーティーじゃないけど」
『ああ……そうだったんだ。それならよけいなお世話だった。よかったわね』
「…ありがと」
電話の向こうの彼女は誤解したようだ。新しい恋人ができたわけじゃない。一人で街をぶらついて、食事をして、帰って本でも読む。それだって立派な予定じゃないか?
『パーティーのあと、みんなでゴーストツアーに行くの』
「仮装したまま?」
『もちろん』
「やっぱりな」
『そっちだけでも来ない? 彼氏を連れてきてもいいわよ。ジャック・ザ・リッパーの殺人現場を回るの』
「うわ、悪趣味」
イアンは「彼氏」をわざと無視して皮肉っぽく笑った。
『人気のあるガイドよ。リッパーではロンドン一。たぶん』
「冷やかしで殺人現場なんて」
『ああもう、だからあなたは頭が固いって言うのよ。時間が経てば歴史的事実は評価が変わる。でしょ、歴史家さん』
「嫌み言うのやめてくれない?」
イアンは苦笑しながら言った。彼女はイアンの「歴史」を知っている。その中には、歴史学の研究室を追い出されたことも含まれている。辛辣な友人はけらけらと笑った。
『リッパーはアイドルなんだから。博物館だってできたし』
「知ってるよ。記事書かされ――あれ、君だったろう。押しつけたの。その日の11時までになんて無茶な……」
『あれは任せてた人に急にすっぽかされたの。でもあなたの才能を買ったのよ。実際間に合わせてくれたし』
「よく言う。ほかに頼める奴がいなかったんだろう?」
『まあね。でもほんとは好きでしょ。いい記事だった』
「まさか。あれはあれ、これはこれ。殺人は殺人……」
『あはは。わかったわかった。その手の理屈言い出すと長いからもういい。じゃね』
イアンはため息をついた。そして話がそれたまま電話が切れたことにほっとしていた。何も説明したくなかったから。ハロウィーンなんてなくなればいいのに。引き受けていた記事を納めたばかりで、暇なのがうらめしかった。仕事をしていれば気がまぎれたし、世話好きの友達への言い訳も楽だった。
外は小雨が降っていた。イアンは地下鉄に乗り、レスター・スクエアで降りて数軒の古書店をうろついた。中にはハロウィーンに因んだコーナーを作っている店もあった。アメリカの古いハロウィーン・カードや、起源から書き起こした民俗学のハードカバー。セレブの仮装を表紙にした薄い雑誌。…それらに混じって、見覚えのある雑誌があった。数年前までそこで働いていた。イアンは懐かしくなって中を開いた。自分が書いた文章が目に入った。
『…現在のハロウィーンは、アメリカで発達した祭の逆輸入である。だが元来この行事は、ドルイド教の新年の始まりの儀式に由来する。この時期は現世と冥界をへだてる門が開くとされ、悪霊や死者の霊が……』
下手くそだな、とイアンは苦笑した。やる気のないのが見え見えだ。妖精だの冥界だのというキーワードで辟易してしまった覚えがある。
一瞬、その「辟易」しながらキーボードを叩いていた時の感覚がよみがえった。部屋の空気も。席の向こうに窓があり……といっても、隣の建物の壁が見えているだけだ……同僚が置いている、枯れかけた観葉植物が視界の端にあり、まずいコーヒーの匂いが漂って……。
イアンは雑誌を閉じた。本当に過去の亡霊がよみがえるようで寒気がした。死んだ思い出がすぐそこに近づいてくるような。これからも毎年毎年、この日はこうなんだろうか。いやになる。
イアンは店の奥に入り、棚を物色するうちにちょっとした掘り出し物を見つけた。とある歴史家の古いエッセイ集で、『クレオパトラの鼻』をテーマに「歴史は偶然の産物」と主張する、ちょっと知られた論文が入っている。今夜は暇つぶしにこれを読もう。過去の亡霊の影に怯えるよりはましだろう。
カウンターで会計をしていると、ふと右手からの視線を感じた。振り向くと、通りに面したガラスドアの向こうに、長身でビジネスマン風の中年の男が立っていた。
イアンは一瞬凍りついた。――「過去の亡霊」だ――まさかこの日に? できすぎてる。
イアンはドアから目を離して、店主が本をポリ袋にいれる動作を穴があくほどまじまじと見た。…悪い夢かもしれない。目を閉じて開けてみた。目覚めない。
…どこかで、当然なのだと感じた。再会するとしたらこの日しかない。朝から憂鬱だったし。さっきあんな古雑誌を手にとってしまったせいかもしれない。…どんどん思いつくことがバカバカしくなってくる。
イアンはもう一度振り返った。外の彼は通りに目をやり、姿勢を正して立っている。…僕が出ていくのを待っている。数年前によくそうしていたように。もっとずっと昔のことのようだ。本を抱え、覚悟をきめてイアンは外に出た。
「ハイ」
「ハイ」
「よくわかったね、これで」
イアンはひげの生えた自分のあごを指ではじいた。彼と暮らしていた頃は伸ばしていなかったし、髪はもう少し長かった。
「服とバッグでなんとなく。あと、背が高くて猫背気味だし……」
イアンは無表情にうなずいた。彼はしげしげとイアンを見て、かすかに笑顔を作った。
「ひげも悪くないね」
「嘘が下手だな。相変わらず」
「君も相変わらず……」
彼は何か言いかけてやめ、気遣うような調子で言った。
「少し痩せたね。元気か?」
彼も痩せたな、とイアンは思った。痩せた上に髪に白いものがあり、少しやつれて見える――それを見てどこかで満足している自分にあきれながら、イアンは答えた。
「元気だ」
「そうか。よかった」
彼は一人でうなずきながら足元を見た。そして意を決したように顔を上げた。
「よかったら、どこかで話さないか」
だめだ。これから友達の家に行く。ハロウィーンのパーティーだ。そのあとはゴーストツアー。そう思いながら、イアンは無愛想に答えた。
「いいよ。どこへ行く?」
2. 《2006/ハロウィーン》
イアンが彼と出会ったのは、当時勤めていた出版社のハロウィーンのパーティーだった。たしかどこかの倉庫を借りて、社内の「クリエイティブ」な連中が飾りつけた妙な会場だった。仮装をしていかなかったイアンは、入り口でゆがんだ髑髏のような仮面をあてがわれた。呼ばれたDJはヤケクソなのか気を利かせているつもりなのか、最近のヒット曲にABBAやフランク・シナトラなんかを挟んでかけていた。招待客を含めて、年齢層はばらばらだった。
テーブルの上にはケータリングのオードブルと、子供じみたハロウィーンの菓子が並んでいた。血糊のような赤いジャムをたらしたカップケーキ、墓石型のクッキー、髑髏を模して目鼻が描かれたマシュマロ。そしてあちこちにかぼちゃのランタン。風船。アメリカ風の陽気さが、何か借りた服でも着ているようだった。実際大勢がレンタルの衣装を着ていた。長髪の海賊の仮装が、定番の魔女より多かった。そんな年だった。