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(本文前エピグラフ)
僕が言っているのは、
ネガティヴ・ケイパビリティ(受容する負の能力)というものだ。
先の読めない状況や、理解を超えた神秘や、
疑念の中に人があるとき、
事実だの、理屈だのを求めて苛立つことなく、
その中にたたずんでいられる、
その能力のことだ。
――ジョン・キーツ 1817年12月22日 (ジョージ&トマス・キーツへの手紙より)
プロローグ/ロンドン
ヴィクトリア駅へ向かうキャブのなかで、ドアにもたれたイアンは目をとじた。
『…いつも冷たいな、君の体は』
誰かの懐かしいささやき声が耳に響いた。ずっと思い出さなかったのに。イアンは眉をしかめ、無意識に自分の体を抱くように腕を組んだ。
『あっためてやりたくなる』
唇と体に、彼に触れられたときの温かさがよみがえった。なんでこんなことになってしまったんだろう? 考えても答えは出ない。
バイセクシュアルとゲイのカップルが、ありふれた理由で別れた。それだけのことだった。妙に覚えてるのは、年代ものの高いワインをどっちが引き取るかでもめたこと。今思い出すとコントみたいだ。一番頭にきたのはあの言葉だ。
『魔がさしたんだ。彼女だって本気じゃなかった』
本気じゃなかった? 遊びならなんでもありか? いつもいつも勝手な屁理屈を。
『いつもってどういう意味だ? 君は僕をそんなふうに……』
思ってたよ。気がつかなかったのか? 五年も一緒に暮らしてたのに。
ワインは僕が勝ちとって、彼は山のようなジャズのレコードを抱えて去った。もともと彼の物だった。二、三十枚は割ってやったと思う。彼女に慰めてもらえばいい。僕よりずっとやさしいのは知ってる――。
信号待ちで車が停まり、イアンは目をあけた。窓の外を見ると、今結婚式をあげたばかりらしいカップルが目に入った。一人は背の高い痩せた女性で、ウェディング・ドレスを着ている。もう一人は少し背が低く、太っていて黒いタキシードを着ている。胸が大きく、遠目にも女性だと分かる。
二人がキスをすると周りの人々が歓声をあげた。通りがかりのやじ馬までが写真を撮っている。式場の前には花が飾られ、LGBTの権利を主張する虹色の布があしらわれている。
2014年3月29日。イングランドとウェールズで、今日から同性間の婚姻が正式に認められる。これまでもシビル・パートナーという中途半端な制度はあり、政府は同性パートナーとの生活を認めていた。しかしこれからは異性間の結婚とまったく同じだ。同性愛者たちの悲願だった。
この歴史的な勝利の日に籍を入れようと、日付が変わった直後から大勢の同性カップルが手続きをし、結婚式をあげていた。――喜ばしい日。耐えられない。ふさがりかけた傷に、むりやり塩でもすり込まれるような気分だ。一刻も早くロンドンから離れたい。これから行く田舎の村なら、道端でこんな光景に出くわさなくてすむだろう。平原に巨大な石が散在し、そこに人口よりも多い羊が群れるような土地ならば。車が動きだした。イアンは再び目をとじた。
もらった仕事は『辺境のレイラインを行く』という、イアンには存在価値が感じられない連載枠の記事だった。リレー形式で毎回別のフリーライターが書いている。行く場所は編集部が割りふる。ストーン・ヘンジのような古い巨石郡や古代の聖地が、地図のうえで見ると直線状に並ぶというのが「レイライン」の定義だった。昨日イアンが聞いた説明では、夏至の祭や星の観測と関連づけて語られているらしい。…ばかばかしい。地図の上にペンで引いた線が、実際には何キロの幅になると思ってるんだ? こんなものと数日つきあわなきゃならない。そう思うだけで気が滅入る。いつもなら、こんな仕事は絶対にとらない。…でも今は、ここから逃れられるならなんでもする。ロンドンにいたって気が滅入るばかりだ。
「着きましたよ」
運転手の声がして、イアンは目をあけた。
マーク・ストーン
「それならマークだ」
「マークだな」
パブのカウンターを囲んだ男たちが笑い出した。笑っていないのは、カウンターの向こうのむすっとした老店主だけだ。もっともこのかぎ鼻の老人は、来たときからまったく笑顔を見せず、もくもくとビールをついでいる。客も中年以上の男ばかり。絵に描いたような田舎の村のパブだ。
列車に長く運ばれ、降りた街でレンタカーを借り、さらに二時間。途中の風景は退屈な起伏を繰り返す草原と羊。たまに目に入る柵と畑が、かろうじて文明人の存在を思わせた。イングランド北部の目的の村は、近くにある小さな湖に観光客がときどき立ち寄るものの、観光地とは呼びがたい地味すぎる村だった。しかもイアンが見に来た巨石は、湖と反対側の険しい区域とハリエニシダの群生地に埋もれ、「レイ・ハンター」と呼ばれるレイライン愛好家にもほとんど認知されていない。
村に着いたイアンは、まずはパブを探した。観光案内所などないところでは、情報を集めるにはパブが一番だ。歴史調査のフィールドワークで身につけた知恵だった。もっとも今回は「歴史調査」とは思わないが。イアンはお愛想笑いを浮かべて、例外なくむさくるしい男たち――イアンが苦手な、繊細さのかけらもない連中――を見回した。
「詳しい人なんですか?」
「詳しいよ。ばかみたいなことまで知ってる。自称この村の遺跡ガイドだ。ここが好きで移り住んできたくらいでね。二年になるかな。めいいっぱい協力してくれるだろうよ」
男たちはまた笑った。…イアンは覚悟した。たぶんうんざりするほど大量の石のかけらや、過去の自慢話につきあうことになるんだろう。話から察するに、がっしりとした中年の男だ。赤ら顔で愛想がよくて、暇さえあれば地図とコンパス片手に荒野を歩き回り、妻から「コレクション」のことで毎日皮肉を言われているような。
イアンはこれまでそういう人物には山ほど会ってきた。対象がなんであれ、なにかに入れ込んでいる人間はどこか似ている。そうさ、古いジャズのレコードを収集することだって――。 イアンは頭を振って、誰かのハンサムな顔を思い浮かべまいとした。
「よしてくれ、あいつは好かない」
突然カウンターの中にいた老人が言い出した。
「よそ者のくせに、なんでもかんでも掘り出しおって」
イアンは懐柔するようにほほえみを浮かべて言った。
「…でも歴史の研究はそういうものです」
「あんたも好かん」
「……」
イアンの笑顔が固まり、老人はイアンに背を向けるとグラスを拭きだした。…精一杯愛想よくしているのに、なぜ嫌われる? 固まったまままばたきしていると、客の一人が機嫌のいい声で言った。
「気にするな。口は悪いが善人だ。なあ、じいさん。客を分けへだてはしないんだよな」
「金さえ払えばな」
老人は振り向かずにそう言った。村の男たちは笑った。
「…とにかくな、そいつは名前が傑作だよ。印石(マーク・ストーン)っていうんだ」
男はそう言って、彼に電話をしてくれた。
* * *
現れた「マーク・ストーン」は、意外にも若い男だった。イアンが長身で痩せているのと比べるとかなり小柄で、頭ひとつ分くらい背が低い。年は十歳近く若く見える。たぶん二十代前半だろう。ニット帽から赤っぽいブロンドの巻き毛をはみ出させ、ジーンズにオレンジ色のダウンジャケットを着て、本を数冊抱えていた。雰囲気はロンドンのだらしない学生と大差ない。そして人なつこい満面の笑みを割り引いたとしても――鼻筋が通って目が大きく、可愛い顔をしていた。二人は握手して、テーブル席をひとつ占領した。
「自称遺跡ガイドです!」
マーク・ストーンはそう言って、落ち着かない声で笑った。興奮しているようだ。見かけは可愛いけど苦手なタイプだな、とイアンは思った。なんだかこの村は苦手なタイプしかいないらしい。だが今はそのほうがありがたい。
「なんでも聞いてください! 雑誌ですって?」
「ええ、あとで掲載号を送りますよ」
イアンはよそゆきの笑顔で言った。
「いや、まとめて注文しますよ。みんなに配らなきゃ。楽しみだなあ。ここの遺跡は過小評価されてるんですよ」
マークはカウンターを振り返り、急に背を丸めると、声を小さくして言った。
「あの連中はね、畑を広げるのに邪魔だって、遺跡の石を砕いて捨ててたんですよ。信じられます? 僕が説得して、今はそんなことさせてないけど。まだバカにしてるけど、観光資源になるとわかれば彼らの気も変わります。あ、村長は味方ですよ。あとで紹介しましょう」
…あまり大きな期待をされても困るな、とイアンは思った。ただのトンデモ雑誌――いや、熱心な愛好家が買う雑誌、と言っておこう――の、後半のモノクロページの記事だ。読者数そのものは安定していて、過去にはたしかに「観光地」も生み出したことがある。だがその確率はべらぼうに低い。ここにいる間、村の派閥争いなんかに巻き込まれるのもごめんだ。できるだけ早く切り上げて帰ろう。ロンドンの同性婚騒ぎだって、二、三日で目立たなくなるにきまってる。少しのしんぼうだ。
イアンはマークが持ってきた数冊の本に目を落とした。
「これは?」
「あ、ジョン・ミッチェルの本とか。持ってるかもしれないけど、念のため」
イアンは1冊のタイトルを見て目が点になった。『アトランティスの記憶』? 冷汗が出てきた。そっちの路線とつながるのか? いくらなんでもついていけないぞこれは――。マークは嬉しそうにイアンの顔をのぞきこんだ。
「こっちはトム・レスブリッジ。それとポール・デヴェルー。あ、アレクサンダー・トムの論文掲載誌って見たことあります? レアものですよ」
マークは少し自慢げに古い冊子を持ち上げた。イアンは目を細めてまばたきした。
「…あー、すいません、その……」
マークはようやく気づいて、さもあきれたという顔になった。
「知らないんですか? 巨石遺跡の記事を書くのに? この分野じゃ英雄ですよ!」
…イアンは少し恥ずかしくなった。正直ネットで似たようなところの情報をざっと調べて「やっつける」つもりだった。写真がいると言われたから現地まで来ただけだ。いつもならやって当然の、定番文献のリサーチさえまだしていない。なんせ昨日決めて今日だ。『そりゃあなたは器用だから書けるだろうけど。でもあなた向きじゃないわよ。たぶん退屈する』と、つきあいの長いフリーの編集者に釘をさされていた。承知の上で食い下がり、やけくそでもらった安い仕事だった。とにかくロンドンを離れたかった。
「…趣味で書くわけじゃないんです。仕事で」
言いながら、やっぱり恥ずかしいと思った。プロなら余計に言い訳にならない。マークは気の毒そうに言った。
「嫌いな仕事をしてるんですか? 心の英雄もなく?」
…心の英雄ときたもんだ。イアンは苦笑した。
「いや、今回はその……臨時で……じつは専門外なんです。いつもは歴史関係の記事を書いてて……」
ちょうど店内のテレビが、今年が第一次世界大戦から百周年であることを報じていた。戦死者を象徴する赤いヒナゲシの花と、白い十字架が並ぶ戦没者墓地が映っている。イアンは救われた気持ちでそれを手でさした。
「ああいうジャンルなんです。うん、百周年の記事もいくつか……」
「でもこれだって歴史でしょ? 古代史」
「…うー……」
イアンは言葉に詰まった。「アトランティス」とロイド・ジョージの外交政策を同列に扱う気にはなれない。絶対に。マークは腕組みした。
「じゃ、あんたの英雄はデヴェルーじゃなくて……」
「…そう、うんまあ……」
「…ダン・ブラウンとか?」
「ありゃ歴史じゃない!」
イアンは思わす大声を出した。
「娯楽小説じゃないか!」
「でもキリストとか……」
「違う違う。僕が普段書いてるのは史実なんだ。ブラウンは小説家だ。題材に歴史的なモチーフは使っても根本的にフィクションだ。わかるだろう? そりゃ分厚いから、読めば達成感は…あるだろう…けど……」
自分の声が大きくなっているのに途中で気づき、イアンは声を落とした。マークはさらりと答えた。
「いや、読んでないです。テレビで映画見ただけ」
「…あー……」
「ええと、トム・ハンクスの」
「……そう」
イアンは呆けた顔で黙り込んだ。マークは身を乗り出した。
「言っときますけど、ここの石はすごく古いんですよ。たぶんストーン・ヘンジに負けないと思う。僕の見たところでは」
「…年代はわからないんでしょ?」
「調べましたよ」
「ほんとに? ここのウェブサイトには載ってなかったけど……」
イアンが唯一事前に見たのは、依頼主の雑誌編集部から教えられたこの村のウェブサイトだった。2ページしかないお粗末なもので、もちろん石のことなど載っていない。マーク・ストーンはないしょ話をするように言った。
「個人的に調べたんですよ。ダウジングで。僕は振り子でやるんですけど」
イアンは遠い目をした。あれか。手に持った振り子やL字型の棒に答えを聞く、ウィジャ・ボードみたいなやつ。…目の前の若い男が平原に立ち、大きな石のかたわらで振り子をクソ真面目に見ているのを想像して、イアンはため息をついた。いくら可愛い顔をしてても完全にアウトだ。
「…悪いけど……あー……ごめん、僕はそういうのは……」
マークはフンと鼻を鳴らした。
「別に驚きませんよ。よくある反応だ。じゃあ何を信じてるんです? 放射性ナントカ?」
「…放射性炭素年代測定法? うん、それならまあね」
マークは勝ち誇るように言った。
「レスブリッジはダウジングでストーン・ヘンジの年代を測定したんです。で、あとでその放射性ナントカで測った数字は一致してたんですよ」
「ははは、話としては面白いけど、そういうのはよくあるよ。たいていは出どころを見ればモンスの天使みたいなもんだ」
「…なにそれ」
「知らない? 第一次世界大戦のトンデモ話さ。ドイツ軍に包囲された英軍が、天使の集団に救われたっていう。従軍兵士の証言ってのがいっぱい出た。でも正体は当時発表された小説との混同なんだ。だいたいこういうものは集団心理が……」
マークは眉をつり上げ、テーブルを叩いて立ち上がった。
「――あんた何しに来たんだよ!」
* * *
わかってる。彼は悪くない。イアンは薄暗くて狭い車のなかで大きな地図と格闘しながら、繰り返し同じ言葉を……思い描く相手を変えて……心の中でつぶやいた。――そうだ、悪いのは彼じゃない。
泣きっ面に蜂の連続だった。村で最高の「専門家」と派手なケンカになって嫌われたあげく、パブの食器を壊して弁償させられ、もちろん老店主にもさらに嫌われた。予約していた小さなホテル――これも村で唯一――の老朽化した水道管が崩壊し、客室フロアは水浸しで泊まれなくなった。(ちなみに今日の宿泊客はイアンだけだった)食事だけはレストランでできたが、肉を煮るだけでここまでまずいものができるとは信じがたいほどだった。…そしてそのあとはこうして、レンタカーのシートで後悔にふけっているのだった。先が思いやられる。それでも放り出して帰るわけにもいかない。
ようやく地図を広げた拍子に、ラップトップパソコンが膝から滑り落ちた。それを拾おうと、地図の下で滑稽な形に体をひねった。…そこにコンコンと窓を叩く音がした。びっくりして振り返ると、マーク・ストーンが車の外に立っていた。ニット帽はなく、この寒いのにダウンジャケットの前を大きく開けている。ぴったりしたTシャツごしに、胸筋が発達しているのが見てとれる。こじんまりと鍛えた体にイアンは一瞬目を奪われた。
「こんばんは」
「…こんばんは」
「ホテルが泊まれないって聞いて。そこじゃ仕事できないでしょ」
「あー…まあ……」
「ええと、ソファで寝るんでよければ……」
マークは車の後ろのほうを振り返ってから向き直った。
「…うちに来ませんか。汚いけどテーブルはあるし、車よりはましだ」
「……」
「庭に車もとめられますよ」
イアンは口をあけたまま戸惑った顔を向けた。マークは頭を掻いた。
「少なくとも地図は広げられるし」
「…うん、助かる」
「車で行きます? なら乗って案内するけど」
イアンはため息をつくと、地図をたたんでパソコンを拾い、隣のシートを空けた。頭の端に、まったく関係ないバカな考えがよぎった。ひょっとして彼は同類だろうか。