「〈生命〉、〈生命〉、永遠の〈生命〉〔Life, Life, eternal life.〕。そこで、わたしのことを待っていてくれ」
(『永遠の生命』E.M.フォースター/大橋洋一監訳『平凡社刊『ゲイ短編小説集』所収 以下引用文は同書より)
…狙ったわけではないのですが、自然にキーワードが出てきました。冒頭でご紹介しました、『ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』のピサロとアタワルパのシーンを見たとき、まず最初に連想したのが、E.M.フォースターの死後に出版された短編『永遠の生命』(The Life to Come)でした。(以下、結末は書きませんがあらすじに触れますのでご了承下さい)
『永遠の生命』は、未開部族に宣教をしにやってきた牧師と若い族長が、肉体関係をもったことから始まる悲劇です。ピサロに嬉しそうに駆け寄ったアタワルパの肢体の生々しさが、この小説のイメージと重なってしまいました…。(笑)
『永遠の生命』では、宣教団の一人である若い牧師が、冷淡で取り付く島がないと評判の若い族長ヴィソバイのところへ、あえて一人で伝道に向かいます。若さからくる挑戦で、送り出す先輩たちは、どうせはねつけられてすごすごと帰ってくるだろうと高をくくっています。案の定、許された集会でも族長は冷淡で、牧師は失望します。
ところがその夜、族長がひとりで「真紅の花飾りのほかなにも身に纏うことなく四肢もあらわな」姿で、牧師の泊まっている小屋を訪ねてきます。
「みなにだまって来た。…
(中略)…〈愛〉と言う名のその神のことを、もっと聞かせてほしい」
牧師は感激し、聖書を引用しながらキリストの愛を説きます。族長はその話を気に入ったと言い、体をすり寄せてきます。
牧師は族長が聡明で美しいのに心を動かされ、その場で「アブラハムの懐」(牧師自身の懐とダブルミーニング)へと誘います。族長は「嬉しそうに――あまりに嬉しそうに」身をゆだね、その手でランプの明かりを消します。
情事を終えたとたんに、牧師は自分の行いを後悔し、恐ろしくなります。族長はキリスト教に改宗し、バーナバスという洗礼名をつけられ、牧師自身も宣教団から見直されます。しかし、族長はキリスト教の愛を誤解しています。…部落の教区牧師として赴任してきた牧師は、族長に対する態度を一変させます。族長は彼に従いつつも鬱積した感情を募らせます…。
フォースターのゲイ小説によく出てくるパターンが、ある程度身分のある白人男性が、とくになんの努力(?)もなしに、階級が下の男性から誠実な愛を捧げられる、という構図です。(当時違法であったことを考えるとのちに脅迫するためとしか思えないのですが、これが純愛なのです)ちょっと虫がいいというか、いい夢見てる感じはあります。『永遠の生命』の冒頭もそんな感じです。
しかしフォースターには、自身が同性愛者であることを死ぬまでおおっぴらにできなかった立場であるせいか、ヨーロッパ社会の常識を批判的に見る視点があります。この物語でも、族長が「キリストの愛」を誤解したというより、キリスト教の言い分のほうが詭弁に聞こえます。しかも最初に、牧師はそれを誤解するに十分なことをしてしまっているわけですから。でも牧師は族長を避けて避けて、はっきり説明もしない。説明できるわけもないのです。
牧師は最初族長の肉体の美しさに魅了されて、愛(キリストの愛であると同時に同性愛)の対象として扱ったにもかかわらず、それを「過ち」と後悔して、次に会ったときには教化すべき未開人として扱うのです。それが矛盾であることを自覚しているのでしょう。また仮に、族長と二人きりになったときに、再び自分が「過ち」を犯すかもしれない、と恐れている。だから族長を避けるのですね。
牧師の二つの態度を敷衍すると、やはりヨーロッパから「蛮族」を見る二つの視点につながります。一方はいわゆるエキゾチシズム――異質な文化やすぐれた肉体に価値を認め、憧憬すら抱く視点。一方は同じ異質な文化を自分たちの常識に照らして「未開・野蛮」とみなし、ひいては人間並みに扱わなくてもよい、たんに征服・利用するだけの自然の一部…とみなす視点です。両者はそのときどきの都合で使い分けられます。そうした矛盾した扱いに耐えた末の族長の台詞に、その矛盾が表現されています。
「わたしは悔いる、わたしは悔いない…(中略)
…わたしは赦す、わたしは赦さない、
どっちにしても同じこと。
わたしは善良わたしは邪悪、
わたしは清浄わたしは汚穢、わたしはあれかこれ、
わたしはバーナバス、わたしはヴィソバイ。
いまさら何の違いがある?」
牧師はある意味その二つの視点に引き裂かれているわけで、彼自身確かに苦しんでいて、望んで相手を傷つけているわけではないかもしれません。しかし、それはやはり「ヨーロッパ人の都合」のなかで自己完結した苦しみであり、対象――ここでは族長の心――を思いやってのことではありません。むしろ、族長に心がある、ということさえ忘れているように見えます。これを意識して書いたのだとしたら、フォースターはすごい。
…いくつかあるフォースターのゲイ小説すべてが傑作だとは思いませんが、『永遠の生命』には抜きん出たパワーを感じます。(ゲイ小説というよりJUNE小説の白眉、という感じがします。もしかしたら区別する必要ないのかしら…?)
考えてみると、同じ構造の欺瞞や矛盾は、自分たちの日常にもあるんですよね…それがこの小説の深みにもなっているのかもしれません。
(これが収録されている『ゲイ短編小説集』には、なぜかオスカー・ワイルドの童話『幸福の王子』もゲイ小説として収録されているのですが、これが読んでみると納得で、訳のせいか泣けて泣けて仕方ありませんでした。未読の方にはおすすめの一冊です!)
…というわけで…自分が『ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』や『永遠の生命』から感じた「蛮族の王と白人男性」というテーマの特徴(史実としての見方をすると広がりすぎて手におえないので、ここではあえてフィクションとしての魅力に絞り込みますが…)をまとめてみますと…。
まずはヨーロッパ人が矛盾した二つの視点を併せ持つことから生まれる緊張感。そして「蛮族」のすぐれた、美しい肉体が誇示されることからくる官能性…という感じでしょうか。
肉体の誇示ということではもうひとつ、アタワルパのイメージからダイレクトに連想したものがありました。1952年に『Physique Pictorial』という、ゲイを対象とした筋肉鑑賞雑誌(?)の表紙を飾った、『Sacrifice』というイラストです。(タッシェンジャパン刊『ビーフケーキ/1950~1970年代のアメリカ筋肉マンの雑誌』所収。画家はジョージ・クエンタンス)
インカなどの先住民族文化を髣髴とさせる太陽のモチーフが描かれた円盤に、装飾的なストリングスビキニと羽のついた冠をつけた男性がはりつけられ、その足元に矢が刺さった男が二人、やはり半裸で倒れている・・・という絵です。三人とも肌が褐色で、筋肉のついた見事な肉体が誇示されています。(今回画像をネット上で探してみたところ、『Aztec Sacrifice』というタイトルで流通しているようです)
…ちょっと強引ですが、この絵を年代順に、『永遠の生命』と『ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』の間にはさんでみますと…。フィクションの中での、「ファンタシーの対象としての蛮族の王」というイメージが浮かび上がります。…もともと白人征服者の蛮族への視線は、いろんな意味で「陵辱」であったわけですから、当然のことかもしれませんね。(シェーファーの戯曲はべつにゲイ向けというわけではないはずですが…しかしほかでも「それっぽい」緊張感のある作品がうまい人ですよねえ❤…いえ、ご本人についてはなにも知らないんですが)
…もっともらしく総括したところで、紙数が尽きました。作品の分析や総括は、素人にも非常に楽しいヒマつぶしですが、その魅力をお伝えできたかどうか…。フォースターさんにオチをつけていただきましょう。
「研究というのはまじめくさったゴシップにすぎない」
(『フォースター評論集』所収『無名ということ』E.M.フォースター/小野寺健 編訳 岩波書店刊)
…おあとがよろしいようで。
[補遺と『王殺し』のことに続く]